前田利考
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 安永8年1月10日(1779年2月25日) |
死没 | 文化2年12月25日(1806年2月13日) |
改名 | 勇之助(幼名)、利考 |
戒名 | 峻徳院 |
墓所 | 石川県加賀市の実性院 |
官位 | 従四位下、飛騨守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 加賀大聖寺藩主 |
氏族 | 前田氏 |
父母 | 父:前田利精、母:西島氏(敬大院) 養父:前田利物 |
兄弟 | 利考、利純、利信、利竜、秀、千 |
妻 | 正室:溝口直信の娘・峻徳院 側室:竹内氏(青松院) |
子 | 養子:利之 |
前田 利考(まえだ としやす)は、加賀大聖寺藩の第8代藩主。
生涯
[編集]安永8年(1779年)1月10日、第6代藩主・前田利精の長男として江戸で生まれる。天明2年(1782年)8月21日、父が不行跡により宗家の加賀藩主・前田治脩によって監禁・強制隠居されたとき、幼少のために家督は叔父の利物が継ぐことになった。天明8年(1788年)、利物が死去した後、その養子として家督を継ぐ。
父と違って有能で、乱れた藩政を立て直すために綱紀粛正、質素倹約による財政再建、文武の奨励などを行なって藩政の刷新を目指した。しかし、文化2年12月25日(1806年2月13日)に27歳で死去した。跡は、従弟(利物の息子)で養子の利之が継いだ。
大聖寺藩の歴代藩主の中では、名君と称されている。
系譜
[編集]父母
正室
- 峻徳院 ー 溝口直信の娘
側室
- 青松院 ー 竹内氏
養子