北条藩

北条藩(ほうじょうはん)は、安房国安房郡北条村(現在の千葉県館山市北条)を居所とした1638年の立藩以後、屋代家が3代約70年にわたって治めたが、1711年に発生した万石騒動によって改易された。中断期間を挟んで1725年水野家が入り、3代約100年にわたって存続、1827年に上総国鶴牧藩に移封されて廃藩となった。

歴史

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北条藩の位置(千葉県内)
千葉
千葉
鶴牧
鶴牧
木更津
木更津
館山
館山
北条
北条
関連地図(千葉県)[注釈 1]
地図
1.北条陣屋(北条藩庁。現在の館山警察署付近) 2.鶴ヶ谷陣屋(江戸時代後期の海防陣屋で、明治期の長尾藩庁。別名・北条陣屋) 3.館山陣屋(江戸時代後期以後の館山藩庁)[1]

屋代家時代

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北条藩は寛永15年(1638年)2月、屋代忠正が安房国内に1万石を与えられて立藩された。忠正はもともと駿河大納言(駿府藩主)徳川忠長御附家老として仕えていた。寛永9年(1632年)、忠長改易の連座によって蟄居処分に処せられたが、赦免されて旧領と同じ1万石が与えられ、大名に復帰した。

初代忠正は寛文2年(1662年)4月に死去し、跡を養嗣子の屋代忠興(忠長の附家老であった朝倉宣正の子)が継いだが、忠興は在任1年足らずして翌年1月に死去し、甥で養嗣子の屋代忠位が3代藩主となった。忠位は百人組頭・大番頭などを歴任したが、小藩にとってその負担は重く、たちまち財政難に陥った。正徳元年(1711年)、忠位は職を辞して出費を節減し、川井藤左衛門を登用して財政再建を図ったが、川井の再建策は年貢の増徴であったために領民の多くが反発し、11月には一部が江戸藩邸、さらには老中秋元喬知にまで訴える状況に発展した。川井は農民側の代表者3名の処刑という強硬手段で応えたが、農民側は勢いを盛り返して再度幕府に訴え出た。訴えは幕府に取り上げられ、正徳2年(1712年)7月22日、川井父子は死罪、藩主忠位は失政を咎められて改易となり、北条藩は廃藩となった。1万石の藩領27か村の民が参加したことから、万石騒動と呼ばれる。

水野家時代

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享保10年(1725年)10月、水野忠定信濃国から安房北条に1万2000石で移封され、再び北条藩が立藩される。享保20年(1735年)6月、丹波国内に3000石を加増されて都合1万5000石となった。第2代藩主・水野忠見は奏者番・大番頭を歴任した。第3代藩主・水野忠韶も奏者番・大番頭を経て文化5年(1808年)11月に若年寄に就任、文政8年(1825年)には城主格となった。

文政10年(1827年)8月、忠韶は上総国鶴牧藩に移封され、北条藩は廃藩となった。

歴代藩主

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屋代家

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1万石。譜代。(1638年 - 1712年

  1. 屋代忠正(ただまさ)
  2. 屋代忠興(ただおき)
  3. 屋代忠位(ただたか)

水野家

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1万2000石→1万5000石。譜代。(1725年 - 1827年

藩祖・水野忠位(ただたか)〈従五位下 肥前守〉

  1. 水野忠定(たださだ)〈従五位下 壱岐守〉
  2. 水野忠見(ただちか)〈従五位下 壱岐守〉
  3. 水野忠韶(ただてる)〈従五位下 壱岐守〉

脚注

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注釈

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  1. ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。

出典

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参考文献

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関連項目

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  • 館山藩 - 北条藩成立以前に安房一国を治めた藩で、慶長19年(1614年)改易。天明元年(1781年)に1万石で再立藩。
  • 安房三枝藩 - 寛永15年(1638年)2月、北条藩と同時に立藩。藩主三枝守昌は、屋代忠正と同じく徳川忠長旧臣。
  • 長尾藩 - 明治維新に際し駿河から安房に移転した藩。明治3年(1870年)、北条藩の陣屋があった北条村に藩庁を置いた。

外部リンク

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