南義郎
南 義郎 | |
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本名 | 清水 真浪 |
生誕 | 1907年4月14日 日本・山梨県甲府市 |
死没 | 1970年12月3日(63歳没) |
国籍 | 日本 |
職業 | 漫画家 |
活動期間 | 1930年代 - 1970年 |
ジャンル | 4コマ漫画、家族漫画、風刺漫画 |
代表作 | 『リボンのうさちゃん』 『うちのかあちゃん』 |
南 義郎(みなみ よしろう[1][2]、本名:清水 真浪[2]、1907年4月14日[2] - 1970年12月3日[2])は、日本の漫画家[2]。1940年代後期から1960年代にかけて多数の漫画を執筆した。
人物・経歴
[編集]山梨県[1][2]甲府市出身。1921年に上京し[2]、同8月に歯科技工士となる。その傍ら、歯科医の義兄より日本画を教わる。
1930年より新聞や雑誌への投稿を初め、1933年には漫画家団体である新鋭漫畫グループを結成した。1933年から1936年にかけて『東京パック』に執筆の他、戦前から戦中にかけて多くの執筆活動を行った。その後、1944年に新漫画派集団に加わるが、1945年に空襲により罹災。山形県に疎開後、終戦。1948年に日本共産党に入党している[1][2]。その後は様々な雑誌や新聞への執筆を行いながら「平和のための美術展」に多く出品した。1966年頃より胆石による入退院の後、1970年12月3日に胆汁性肝硬変により死去。
作品
[編集]連載漫画
[編集]- 頑張り父娘(漫画 1945年 - ????年)
- マルさん→こん平ちゃん(東京タイムス 1946年 - ????年)
- リボンのうさちゃん(こどもマンガタイムズ→りぼん 1947年 - ????年)
- なかちゃん・よっちゃん(少女ブック 1948年 - 1949年)
- トップ君 (サイエンス 1948年 - 1949年)
- ジロちゃん(主婦の友 1949年)
- 仲ちゃんだより(少女ブック 1950年)
- ピンクちゃん(少女サロン 1952年 - 1953年?)
- モモちゃんミミちゃん(少女ブック 1952年 - 1953年?)
- テレビ・コンビ(女学生の友 1953年 - 1954年)
- 再憂記・孫悟空(アカハタ 1954年4月 - 1955年11月)
- ノン子とチヨ子(女学生の友 1954年 - 1955年)
- うちのかあちゃん(アカハタ 1955年 - 1962年)
- みよちゃんのしゃぼん玉(日本のこども 1956年 - 1957年)
- おみっつぁん(農業共済新聞 1957年 - ????年)
- ちゅんすけ(平和婦人新聞 1958年)
- 草太くん (中学時代二年生 1958年)
- かずっこ(平和婦人新聞 1958年 - 1961年)
- ともっぺ・もとっぺ(女学生の友 1958年 - 1959年?)
- ふしぎな影小僧(日本のこども 1958年)
- 親愛なるヨッチン(女学生の友 1959年9月 - 1961年10月)
- ABコンビ(中学生の友 1959年 - 1961年)
- あたしはホッペ(中学時代2年 1960年)
- トッコとカッコ(美しい十代 1960年6月 - 1960年12月)
- Aクン・Bチン・Cっぺ(中学生の友1年 1960年)
- 十代っぺ(美しい十代 1961年1月 - 1962年12月)
- せまいながらも(新婦人新聞 1962年)
- リトル・レデイ(女学生の友 1962年1月 - 1963年2月)
- わかものりっちゃん(アカハタ 1962年 - 1965年)
- ベビーコンビ(女学生の友 1963年4月 - 1965年3月)
- リトルフレンド(女学生の友 1965年4月 - 1966年8月)
- ポッポの鳩ちゃん(アカハタ 1966年)
- チビッコ・レディ(中二時代 1965年 - 1966年)
- まさかねくん(赤旗 1970年)
単行本
[編集]- おもしろ教室(子供マンガ新聞社出版局 1948年)
- 漫画太閤記 猿面冠者幼年の巻(自由出版社 1949年)
- リボンノウサチャン(保育社 1949年)
- 若草物語(集英社 1953年)
- オリバーの冒険(集英社 1953年)
- にんじん(集英社 1954年)
- アルプスの少女(集英社 1954年)
- 小公女(河出書房 1954年)
- キュリー夫人(集英社 1955年)
- 巌窟王(集英社 1956年)
- 赤毛のアン(集英社 1957年)
- アンクルトムの小屋(小学館『小学五年生』1958年10月号付録)[3]