原爆疎開
原爆疎開(げんばくそかい)とは原子爆弾が投下される可能性があると判断されて、都市部から住民を疎開させること。
概要[編集]
1945年に日本本土空襲で主要都市への空襲が本格化して敗戦が濃厚になる中で、原子爆弾が8月6日に広島市に投下され、8月9日に長崎市に投下された(日本への原子爆弾投下)[1]。
原子爆弾が投下された広島市や長崎市は過去に空襲をほとんど受けていなかったため、次に原子爆弾が落とされるのは新潟市という恐怖が新潟市民に広がっていた[1]。当時の新潟市の人口は約17万人で、新潟港は朝鮮半島から物資を輸送する拠点港であり、戦争末期には太平洋側の航路が保てなくなるため、日本列島への物資受け入れ窓口として重要性が高まっていた[1]。
新潟県は広島市を視察するために職員を派遣したが、途中の混乱で辿り着けず、内務省で得た断片的な情報をもとに報告書を提出した[1]。これを受けて新潟県幹部らが8月10日午後から緊急会議を開き、動揺と混乱を恐れた国(内務省)は、原爆疎開に反対の意思を示していたが、8月11日未明に会議終了後に畠田昌福新潟県知事が新潟市民の緊急疎開させる「知事布告」を発令した[1][2]。
「知事布告」を受けて新潟市は8月11日午後1時30分から緊急町内会長会議を開いて疎開方針を説明した[1]。しかし、8月11日に各地の町内会長から住民に知らせる前に、8月10日夜から緊急疎開の噂が広まっていたために、郊外に通じる道はパニックに近い状態でいち早く荷物を山積みにしたリヤカーを引いて避難する市民であふれた[1][2]。8月13日までに中心街は緊急要員を残してゴーストタウンとなった[1]。
この騒動の中でもごくわずかに避難しなかった人もいた[1]。疎開した市民が8月15日に玉音放送を聞いて終戦を知り、終戦3日後の8月18日頃には新潟市に戻った[1]。
なお、ポツダム宣言が公表される前日の7月25日の時点で、新潟市は米軍の原爆投下候補の4つの候補地(他は広島市・小倉市・長崎市)の一つに挙げられていた[1]。しかし、8月2日の時点で新潟市は原爆投下候補から外された[1]。理由として、「工業が集中している地区と小さな工場を含んだ居住地域とが互いに遠く離れているため、この種の攻撃のためには不適当」と米軍に判断されたためであった[1][3]。