原藤右門
原 藤右門(はら とううもん、1895年(明治28年)6月30日[1] - 1947年(昭和22年)4月11日[2])は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、大阪府泉南郡春木町長。
経歴
[編集]大阪府[2]南郡北掃守村(泉南郡北掃守村、春木町[3]を経て現岸和田市)で、富豪[3]・原精一の長男として生まれる[4]。1905年(明治38年)家督相続[4]。大阪府立農学校の園芸科(現大阪府立園芸高等学校)で学び[3]、1913年(大正2年)同校を卒業した[2]。1931年に日恵(日本エチオピア)貿易協会を設立[5]。
東洋帆布取締役、北掃守村信用組合主管、府中織物常務取締役、和泉織物常務取締役、帝国産業取締役、泉北郡織物工業組合連合会理事長、同織物製造統制組合理事長、綿フス統制会資材部長、同理事などを務めた[2][3][4]。
政界では春木町長、泉南郡町村長会副会長に在任[2][3]。1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に大阪府第2区から無所属で出馬して当選し[6]、衆議院議員に1期在任した[2]。この間、日本自由党総務、同民情部副部長などを務めた[2]。
親族
[編集]妻の尾上は和泉織物社長・白井治平の長女[7]。伯父にマッチ製造などで成功した播磨喜三良がいる[5][8]。
→「和泉織物 § 沿革」を参照
脚注
[編集]- ^ 衆議院『第九十回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1946年、4頁。
- ^ a b c d e f g 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』524頁。
- ^ a b c d e 『昭和に輝く』97-98頁。
- ^ a b c 「原藤右衛門」『人事興信録 第14版 下』ハ110頁。
- ^ a b 日恵貿易の開拓者として四青年がエチオピアへ 商品見本 一万円を携えて大阪朝日新聞 1931.12.11
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第22回』1141頁。
- ^ 白井治平『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 播磨喜三良『財界二千五百人集. [本編]』財界二千五百人集編纂部、1934年
参考文献
[編集]- 原静村『昭和に輝く』南海新聞社、1934年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第22回』衆議院事務局、1950年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。