古市城
古市城 (奈良県) | |
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城郭構造 | 平山城 |
築城主 | 古市氏 |
築城年 | 不明 |
主な改修者 | 古市澄胤 |
主な城主 | 古市氏 |
廃城年 | 天文12年(1543年) |
遺構 | 堀、曲輪、天守閣、持仏堂、噴水 |
指定文化財 | 未指定 |
位置 | 北緯34度39分10.3秒 東経135度50分41.7秒 / 北緯34.652861度 東経135.844917度 |
地図 |
古市城(ふるいちじょう)は、奈良県奈良市古市町にあった中世の日本の城(平山城)。
概要
[編集]奈良市古市町に位置し、城跡は奈良市立東市小学校の校地となっている。当初は約150×200mの広い台地にあって堀を巡らせ、後に谷を隔てた南方の狭い丘陵も城地とされた。台地と西側の環濠集落が結合して惣構えを形成していた。最大時には5町四方で、南北西三方に各門があり、その大手を延命寺口といった。主要建物の屋根は板葺で、それ以外は茅葺等であった。主要建物の壁は白壁で、それ以外は土壁等であった。
歴史
[編集]当城を拠点とした古市氏は、1320年代より史料に登場し、室町時代には興福寺大乗院の坊人として有力な存在となった。
古市胤仙は文安元年(1444年)の興福寺を二分する争乱では、経覚に従って当城から筒井氏と対峙し、筒井氏に代わり衆徒の棟梁となるとともに、庶家の反抗を抑えた。文安4年(1447年)には奈良を追われた経覚を半ば強引に古市に移し、続く古市胤栄は応仁の乱に関わるとともに一族・家臣の統制を強化して権威の回復に務めた。古市澄胤の代に全盛を迎えると城内に堀や馬屋、風呂などを設け、連歌や茶の湯が催された。
明応6年(1497年)に筒井勢に敗れて落城し、城は破却された。同8年(1499年)に細川政元の支援で澄胤が復帰して翌年に城を再建したが、永正元年(1504年)に再び落城した。翌年さらに再々建され、同5年(1508年)に澄胤が敗死すると後継の公胤は城域の中心を南に移している。天文12年(1543年)に筒井順興に敗れた際、城は古市氏によって焼かれ(『明応六年記』)、さらに城跡の竹木が切り払われた(『大乗院日記目録』)[1]。
古市氏の末裔
- 加賀前田藩の小松中納言前田利常の御人持として3,600石で召し抱えられた。墓地は金沢市光覚寺、妙法寺、野田山、奈良市古市町にある。
- 豊前小倉藩茶道頭をつとめた(絶家)。墓地は北九州市の峯高寺と安正山立法寺にある。
- 肥後熊本藩茶道頭をつとめた。(肥後古流円乗坊流)
- 三井寺山内円満院の坊官をつとめた。墓地は大津市の霊雲山新光寺にある。
脚注
[編集]- ^ 中澤克昭「自焼没落」『史友』28号、1996年。
参考文献
[編集]- 角川日本地名大辞典編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 29 奈良県』角川書店、1990年。
- 田中慶治「中世後期畿内国人層の動向と家臣団編成-大和国古市氏を中心に-」『日本史研究』406号、1996年。/所収:田中慶治『中世後期畿内近国の権力構造』清文堂、2013年。ISBN 978-4-7924-0978-4。
- 古市新城之図
- 平成27年(2015年)1月18日発行、古市氏系図続
- 平成27年(2015年)2月8日発行、西坊家口伝集続々