司馬保
司馬 保(しば ほう、294年 - 320年)は、中国西晋の皇族。字は景度。父は南陽王司馬模。叔父は八王の乱の八王の一人である司馬越。西晋崩壊後、晋王を僭称して自立した。
生涯
[編集]若い頃より文才が有り、著述を好んだという。始め、南陽国世子に封じられた。
永嘉5年(311年)、父の司馬模により平西中郎将・東羌校尉に推挙され、上邽に駐軍した。秦州刺史裴苞は司馬保を拒んだので、司馬模は帳下都尉陳安に裴苞を攻めさせ、安定に敗走させた。6月、洛陽が漢(前趙)軍の攻勢により陥落し、懐帝は捕らわれの身となった。さらに8月、長安を守る司馬模もまた漢軍に敗北し、降伏した後に殺害された。司馬保は父の爵位を継いで南陽王となった。
永嘉6年(312年)、雍州刺史賈疋が漢に敗れて戦死し、秦州刺史裴苞もまた涼州刺史張軌に殺害されたので、司馬保は秦州刺史に任じられ、秦州全域を領有するようになった。ここにおいて大司馬を自称すると、独断で承制(皇帝に代わって諸侯や守相を任命する事)を行って百官を置いた。隴右の氐・羌はみな司馬保に従い、涼州刺史張寔は使者を派遣して貢献した。9月、秦王司馬鄴(後の愍帝)が長安で皇太子に即位すると、司馬保は正式に大司馬に任じられた。
建興元年(313年)6月、愍帝が即位すると、右丞相・大都督・陝西諸軍事に任じられ、琅邪王司馬睿(後の元帝)と並んで西晋の最高権力者になった。愍帝は司馬睿・司馬保へ詔を下し、共に協力して晋室復興を図ろうと呼び掛けた。
建興3年(315年)2月、相国に昇進した。しばらくして、司馬模の旧将である陳安が帰順して来たので、これを迎え入れた。羌族が反乱を起こすと、陳安に精騎1000余りを与えて討伐を命じ、陳安はこれを滅ぼした。司馬保は陳安を厚遇し、その信頼ははなはだ手厚いものだった。司馬保配下の張春らは大いに妬み、陳安に謀反の心があると讒言したが、司馬保は聞き入れなかった。その為、張春らは陳安を殺害しようと謀り、刺客を放った。これにより陳安は負傷し、隴城へと逃走した。こうして陳安は司馬保から離反したものの、使者を司馬保の下へ派遣して貢献を絶やさなかった。
9月、漢軍の攻勢により長安が追い詰められると、愍帝は司馬保に救援の兵を出すよう幾度も要請した。この当時、長安以西の群臣は朝廷の指示よりも司馬保の命を奉じており、愍帝は軽んじられていた。司馬保の近臣達は「毒蛇が手を噛んだら腕を斬りとるものです。胡寇の勢いが激しい今は、隴道を断って情勢の変化を観るべきです」と述べたが、従事中郎裴詵は「卿等は毒蛇が頭を噛んだら、首を斬って難を逃れるというのか!」と反論した。司馬保は裴詵に同意して出征を決意し、鎮軍将軍胡嵩を行前鋒都督に任じて救援を命じた。
建興4年(316年)8月、胡嵩は霊台で劉曜を破ったが、朝政を主管していた麹允・索綝と対立していたので、軍を引き上げさせてしまった。11月、長安が陥落して愍帝は平陽へ連行された。
建興5年(317年)1月、前涼刺史張寔は司馬保に書を送り、その指示に従う旨を伝えた。司馬保は帝位を継ぐ遺志を持っていたが、司馬睿が先んじて同年3月に晋王になり、翌年に愍帝が殺害されると帝位に登った。
大興元年(318年)3月、陳安は安定郡太守焦嵩と共に挙兵し、司馬保を攻撃した。司馬保は使者を送って涼州刺史張寔に救援を求め、張寔は金城郡太守竇濤に歩騎2万を与えて天水の新陽に駐軍させた。
大興2年(319年)4月、司馬保もまた晋王を僭称し、建康と改元して百官を置き、司馬睿には臣従しなかった。また、使者を派遣して張寔を征西大将軍・儀同三司に任じ、三千戸を加増した。この頃、上邽は飢饉に襲われており、さらに前年より陳安からの攻撃も続いていたため、張春らの勧めに応じて南安の祁山に移った。張寔は韓璞に歩騎5000を与えて司馬保を救援させた。その後、陳安は上邽から撤退して綿諸に兵を移すと、司馬保は上邽に戻った。しかし、しばらくすると陳安は再び上邽に進んで圧力をかけた。張寔が配下の宋毅を派遣すると、陳安はやっと兵を退いた。
11月、黄石にいた屠各の路松多が新平と扶風で挙兵し、兵1000人を集めて司馬保に帰順した。これを受け、司馬保は楊曼を雍州刺史に、王連を扶風郡太守に任じて陳倉を守らせ、張顗を新平郡太守に、周庸を安定郡太守に任じて陰密を守らせた。趙帝劉曜は車騎将軍劉雅・平西将軍劉厚に陳倉を攻撃させたが、20日経っても勝てなかったので自ら中外の精鋭を率いて攻撃に参加した。
大興3年(320年)1月、劉曜は陳倉を攻略し、王連を殺して楊曼を南氐に逃走させた。次いで、草壁を陥落させて路松多を隴城へ逃走させ、さらに安定をも陥落させた。司馬保は恐れて桑城に撤退し、氐・羌はみな司馬保に従って桑城に移った。劉曜は軍を引いて長安に戻った。後に、司馬保は涼州刺史張寔の下へ逃走しようと考えたが、張寔は彼が宗室の中でも声望があったので、河西に来ることで人心が移ってしまうことを恐れた。その為、配下の陰鑒を派遣して司馬保を迎えさせたが、護衛すると公言して、実際には彼がやってくるのを阻んだ。
3月、司馬保配下の張春・楊次らは別将の楊韜と対立し、司馬保に誅殺するよう求めた。さらに、陳安を討つことを請うたが、司馬保はいずれも許さなかった。5月、張春は怒って司馬保を幽閉すると、殺害してしまった(『晋書』では病死とある)。享年27であった。
その後、張春は宗室の子である司馬瞻を世子に立てて大将軍と称させた。だが、司馬保の配下の者は皆逃走してしまい、涼州に身を寄せる者が1万人余りに及んだ。趙に帰順していた陳安は挙兵すると、司馬瞻らを攻撃した。司馬瞻は降伏し、張春は枹罕に逃走し、楊次は捕えられた。司馬瞻は長安に送られて誅殺され、楊次は司馬保の柩前で斬り捨てられ、司馬保の下に祀られた。その後、天子の礼で司馬保を上邽に葬り、元王という諡号を贈った。
人物
[編集]司馬保は愚昧で気が弱く、決断力が無かった。その体は肥え、体重は8百斤(約180kg)にもなると世間に吹聴された。彼は睡眠と読書を好み、性的不能者であったので子供が無かったという。