吉川一雄

吉川 一雄
Kazuo YOSHIKAWA
基本情報
名前 吉川 一雄
生年月日 (1946-11-02) 1946年11月2日(78歳)
身長 180 cm (5 ft 11 in)
体重 80 kg (176 lb)
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府
経歴
テンプレートを表示

吉川 一雄(よしかわ かずお、1946年11月2日 - )は、京都府出身のプロゴルファー

来歴

[編集]

5歳からゴルフを始める[1]。高校卒業後に戸田藤一郎に師事し、戸田最後の門下生と言われる[1]1969年に23歳でプロテストに合格し、尾崎将司と同期となる[1]1972年には美津濃トーナメント[2]関西オープン[3]に勝ち、1973年にはオールスターゴルフトーナメントを制するなどすぐに頭角を現し、中村通山本善隆宮本康弘と共に「関西四天王」とも呼ばれた[1]

1973年ダンロップフェニックストーナメントの前身に当たる「全日空フェニックストーナメント」[4]では、宮本と最後まで激しいデッドヒートを繰り広げ、最終日の16番で首位に立ったが、17、18番で痛恨のボギーを叩く[5]尾崎将司と並んでの2位[6]タイに終わるが、優勝した宮本を祝福している[7]

1976年日本プロマッチプレーでは、4日目の準決勝で鈴木規夫と対戦し、1アップで最終18番を迎え、グリーンエッジでチップインバーディーを決めて勝ち上がる[1]新井規矩雄との決勝では1番でバーディー、2,3番では新井のボギーでスタートから3ホール連続アップして有利に試合を進めた[1]。その後は、新井が5、10番、吉川が9、13番で取って吉川3アップのまま終盤に入る[1]。15番で新井がとって2アップになった吉川は、ここを取れば勝ちとなる17番パー3でピン手前15ヤードにオン。新井はグリーン手前に外し、チップインを狙って打ったが僅かにショートした。吉川はロングパットを30cmに寄せ、パーパットを沈めて2-1で決着。2代目のマッチプレー王者、吉川にとっては初めての日本タイトル奪取になった[1]。師匠である戸田譲りのアイアンの切れの良さを大会随所で見せ、特に決勝では新井よりドライバー飛距離が劣るが、先にピンに絡めて行くことで、プレッシャーをかけた[1]。試合後には「出だしで楽になりました。10番で新井さんにいきなり長いパット(10m)を決められた。11番パー5で4オンのパーでしたけど、新井さんがバーディーパットを外してくれたので」と日刊スポーツに展開を振り返り、「300万円(2位賞金)でも最高やと思っていたし、(優勝賞金600万円は)女房も喜ぶでしょう」と笑顔を見せた[1]

1979年には井上幸一と共にワールドカップ日本代表に選出され、団体でヘール・アーウィン&ジョン・マハフィーアメリカ合衆国)、ケン・ブラウン&サンディ・ライルスコットランド)、アントニオ・ガリード&マヌエル・ピニェロスペイン)、ハイメ・ゴンザレス&ラファエル・ナバロ(ブラジル)、陳志明&呂西鈞中華民国)、エディ・ポーランド&デス・スミスアイルランド)に次ぎ、マーク・ジェームス&マイケル・キングイングランド)、ジャン・ガライアルド&ベルナール・パッカシオ(フランス)を抑え、ダン・ホールドソン&ジム・ネルフォードカナダ)と並んで7位に入る。個人ではアーウィン、ベルンハルト・ランガー西ドイツ)、ライル、ゴンザレス、ガリード、マハフィー、ラモン・ムニョス(ベネズエラ)に次ぎ、ブラウン、呂と並んで8位タイに入った。

1980年日本オープン4日目ではまったく逆方向の風が吹きすさぶ中、序盤からバーディを重ね4アンダーまでスコアを伸ばし菊地勝司から首位を奪うが、13番で3パットのボギーを叩くと、人が変わったようにショットが乱れ始める[8]。15番でボギー、16番でダボ、17番でボギーと大きく崩れ通算1オーバーでフィニッシュ[8]し、最終的には青木功と並んでの2位タイに終わった[9]

1982年の日本アジア航空ゴルフトーナメントでは初日を陳志・宮本・許勝三(中華民国)と並んでの2位タイ[10]でスタートし、3日目には6位[11]に着け、最終日には藤木三郎・呂西と並んでの5位タイ[12]に入った。

1992年ブリヂストン阿蘇オープンを最後にレギュラーツアーから引退し[13]、その後はシニアツアー入り。

不整脈が出て検査入院し、ニトログリセリンを携帯しながらプレーしたこともあったが、2016年の日本プロゴールドシニアでは初日に5バーディー、3ボギーの2アンダー70で首位に並ぶ[14]。スタートの10番で2m、12番でも2mとショットが冴え、14番では上から5mを入れて3つ伸ばす[14]。15番でダブルボギーになりそうな2mのボギーパットを沈めて落ち着き、後半をイーブンで回った[14]。最終日は9番からボギー、ダボ、ボギーで、10番は折り返しで待たされてOBを打ってしまう[15]。その後は立て直して15、16番でバーディーを取り、1打差2位[15]と健闘。

主な優勝

[編集]

レギュラー

[編集]
  • 1972年 - 美津濃トーナメント、関西オープン
  • 1973年 - オールスタートーナメント
  • 1976年 - 日本プロマッチプレー
  • 1985年 - 兵庫県オープン

脚注

[編集]

外部リンク

[編集]