命婦

命婦(みょうぶ)とは、律令制下の日本において従五位下以上の位階を有する女性、ないし官人の妻の地位を示す称号

概要

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命婦という言葉は、元は中国の『周礼』において内外の官として命夫・命婦の官が存在したことが記されており、ここに由来があると考えられている。ただし、日本における命婦はその名称のみを採用して、その内容も全く異なるものとなった(命夫にあたる男官・呼称については採用されなかった)。

命婦は『職員令義解』の中務省条に規定があり、五位以上の女性を内命婦(うちのみょうぶ)、五位以上の官人の妻のことを外命婦(げのみょうぶ)という。但し、命婦は官職ではなく、所属官司の職掌に奉仕する地位であり、官位相当や定員はなかった。また、女王の場合、五位以上の位階なくとも内命婦に列せられた。奈良時代までは宮中に仕える女性は命婦を含めて宮人と称したが、平安時代以降は宮人と命婦は区別されるようになる。

命婦の奉仕する対象は、内侍司の務めである、天皇の儀式或いは神事に限られるようになり、朝賀や即位式などにおいて奉仕する女性は褰帳命婦、威儀命婦、立春の際の水取命婦、春日祭の際に奉仕する博士命婦などが置かれた。摂関政治がはじまる頃には、命婦は中臈の女房の称号となり、父や夫の官職に因んで、少将命婦、少輔命婦、中務命婦、小馬命婦などと称するようになり固有名詞となっていった。

江戸時代には命婦は4・5名で、女蔵人(にょくろうど)・御差(おさし)とともに構成した御下(おしも)と呼ばれる下級女房層を構成した三職を合わせると定員7名となった。命婦の上首は「伊予」の名称で呼ばれ、命婦のみならず御下全体を統括する役目を担い、江戸時代には壬生官務家出身者が選ばれる例となり、次第に形式的な地位となっていった。次席は「大御乳人(おおおちのひと)」と呼ばれ、本来は当代の天皇の乳母を務めた人に対する待遇であったが、後には熟練の女官として掌侍の上首である勾当内侍を補佐して、宮廷内外と勾当内侍との間の取次や事務処理を行った。このため、次第に大御乳人の出身も局務家である押小路家上北面である松室家下鴨社社司である梨木家の3家出身者が占めるようになっていった[注釈 1]。大御乳人は当代の天皇との関係で任命されたため、天皇が代替わりをすると伊予は職に留まるが、大御乳人は職を退く例であった。それ以外の命婦は上野・越後・能登といった国名で呼ばれ、伊予や大御乳人を補佐するとともに、当時の命婦の職務であった朝の天皇御座所の清掃、天皇の食事の補助、夕方の天皇皇后の入浴補助を行った[1]

関連項目

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脚注

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注釈

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  1. ^ ただし、仁孝天皇の時の鴨脚増子のように、親王時代の御乳人(乳母)経験者が天皇即位によって昇進する例も依然として存在していた。

出典

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  1. ^ 高橋博「近世の命婦について」(初出:『日本歴史』676号(日本歴史学会 編/吉川弘文館2004年)/所収:高橋『近世の朝廷と女官制度』(吉川弘文館2009年ISBN 978-4-642-03439-5 第五章)