坂上兼成
時代 | 平安時代末期 |
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生誕 | 永久2年(1114年)? |
死没 | 応保2年5月9日(1162年6月23日) |
官位 | 正六位上・大判事 |
主君 | 近衛天皇→後白河天皇 |
氏族 | 坂上氏 |
父母 | 父:坂上明兼 |
子 | 明定、明基、基広 |
坂上 兼成(さかのうえ の かねしげ)は、平安時代末期の官人・明法家。大判事・坂上明兼の子。官位は正六位上・大判事。
経歴
[編集]久安3年(1147年)正六位上・防鴨河使主典の時、左衛門少志に復任。久安5年(1149年)に明法博士に任じられて大判事を兼ねる。また、仁平2年(1152年)には備中大掾を兼務する。左衛門少尉も歴任した。
保元元年(1156年)に発生した保元の乱の後に、崇徳上皇方に付いた人々の処分について明法勘文を提出した[1]。また、平治元年(1159年)平治の乱の緒戦で藤原信頼によって捕えられた信西の子・藤原成憲の身柄を預かったという[2]。
官歴
[編集]- 康治元年(1142年) 日付不詳:右衛門少志[3]
- 時期不詳:正六位上。防鴨河使主典[4]
- 久安3年(1147年) 12月16日:左衛門少志[4]
- 久安5年(1149年) 日付不詳:明法博士[5]
- 仁平2年(1152年) 日付不詳:兼備中大掾[5]
- 保元元年(1156年) 10月13日:見左衛門大志[1]
- 保元2年(1157年) 正月24日:右衛門尉[1]。4月26日:検非違使尉[1]
- 時期不詳:左衛門少尉[6]
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年
- 御橋悳言『平治物語注解』続群書類従完成会 、1981年