大原敏夫
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 愛媛県 |
生年月日 | 1918年1月7日 |
没年月日 | 1939年 |
身長 体重 | 162[1] cm 60[1] kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 1937年 |
初出場 | 1937年4月12日[1] |
最終出場 | 1938年11月17日[1] |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について |
大原 敏夫(おおはら としお、1918年1月7日 - 1939年)は、愛媛県出身のプロ野球選手(捕手)。
来歴・人物
[編集]愛媛県立越智中学校(現・愛媛県立今治南高等学校)在学時代は内野手だった。その後呉海軍工廠では捕手を務め、1937年に阪急軍に入団。
当時の阪急の捕手には倉本信護(ちなみに、彼とは呉海軍工廠でチームメイトだった)、島本義文がいて出場が難しいかと思われたが、デビュー戦となった1937年4月12日のイーグルス戦で、8番捕手として先発出場[1]。2打数1安打1打点1盗塁と活躍し、2人の正捕手争いに割って入る事ができた。その後、倉本が名古屋軍へ移籍し、島本が持病の肩痛で出場機会が減少したことから、翌1938年に阪急の正捕手になった。打撃面ではそれほど良くなかったものの、前川八郎(巨人)からホームランを打つなど、意外性のある打者として活躍。結果的に最後の出場となった、1938年11月17日の巨人戦では、当時の巨人のエース・スタルヒンから3打数1安打の好成績を残している[1]。
しかし、1938年秋季シーズン終了後、応召。翌1939年、中国大陸で戦死した[2](正確な没年日時・死没場所は不明)。数え22歳没。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
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1937春 | 阪急 | 9 | 21 | 15 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 1 | -- | 0 | -- | 5 | -- | 1 | 2 | -- | .133 | .381 | .133 | .514 |
1937秋 | 29 | 79 | 64 | 3 | 8 | 0 | 0 | 0 | 8 | 2 | 0 | -- | 3 | -- | 12 | -- | 0 | 12 | -- | .125 | .263 | .125 | .388 | |
1938春 | 27 | 98 | 84 | 6 | 12 | 1 | 0 | 0 | 13 | 3 | 3 | -- | 5 | -- | 9 | -- | 0 | 13 | -- | .143 | .226 | .155 | .381 | |
1938秋 | 36 | 129 | 113 | 9 | 29 | 1 | 2 | 1 | 37 | 12 | 1 | -- | 4 | -- | 12 | -- | 0 | 15 | -- | .257 | .328 | .327 | .655 | |
通算:2年 | 101 | 327 | 276 | 20 | 51 | 2 | 2 | 1 | 60 | 19 | 5 | -- | 12 | -- | 38 | -- | 1 | 42 | -- | .185 | .286 | .217 | .503 |
記録
[編集]- 初出場:1937年4月12日、対イーグルス1回戦(洲崎球場)、8番捕手で先発出場[3]
- 初安打:同上、藤野文三郎から[3]
- 初本塁打:1938年9月5日、対巨人1回戦(後楽園球場)、2回表に前川八郎から右越ソロ[4]
背番号
[編集]- 12 (1937年 - 1938年)[5]
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 大原敏夫 - NPB.jp 日本野球機構