大宮季衡

 
大宮季衡
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 正応2年(1289年
死没 興国7年/貞和2年5月25日1346年6月15日
改名 季衡→空勝(法名)
別名 号:大宮
官位 従一位右大臣
主君 花園天皇後醍醐天皇
氏族 西園寺家大宮家
父母 父:西園寺公衡、母:藤原兼子(藤原光保[1]の娘)
兄弟 季衡西園寺実衡西園寺寧子、慈快、常盤井宮恒明親王御息所
久我通雄の娘
氏衡公名、寛覚、九条道教正室、三条公忠
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大宮 季衡(おおみや すえひら)は、鎌倉時代後期の公卿左大臣西園寺公衡の長男、母は藤原光保女。官位従一位右大臣

経歴

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侍従左近衛少将上野介播磨介等を経て延慶元年(1308年)に従三位に叙せられ、公卿に列する。延慶2年(1309年)に正三位・左近衛中将。延慶3年(1310年)には従二位参議、まもなく権中納言正和2年(1312年)には正二位文保2年(1318年)には権大納言となる。

さらに妹・西園寺寧子の産んだ量仁親王後醍醐天皇皇太子となった嘉暦元年(1326年)には大納言となり、元徳2年(1330年)には従一位。量仁親王が即位(光厳天皇)した翌元徳3年(1331年)には天皇の外叔父として内大臣、次いで正慶元年(1332年)には右大臣となる。官位・官職共に異母弟の実衡を越すが、まもなく鎌倉幕府滅亡直前の正慶2年(1333年)3月に出家した。法名は空勝。

系譜

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大宮家自体は孫の実尚の代で一時断絶(江戸時代に再興)したが、女系を通して甲斐武田氏伏見宮を始めとする旧宮家、越前松平家等に血統が伝えられた。

脚注

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  1. ^ 左馬頭