大炊御門経久
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 天明元年9月16日(1781年11月1日) |
死没 | 安政6年7月10日(1859年8月8日) |
別名 | 号:後瑶台寺 |
官位 | 従一位、右大臣 |
主君 | 光格天皇→仁孝天皇→孝明天皇 |
氏族 | 大炊御門家 |
父母 | 父:大炊御門家孝、母:三条季晴の娘 |
兄弟 | 経久、内藤政憲、彰順院、 久我信通養女、庭田重能正室 |
妻 | 中山尹子(中山忠尹の娘) |
子 | 経長、経尚、家信、今城経明 |
大炊御門 経久(おおいのみかど つねひさ)は、江戸時代中期から後期にかけての公卿。右大臣・大炊御門家孝の子。官位は従一位・右大臣。大炊御門家25代当主。光格天皇(119代)・仁孝天皇(120代)・孝明天皇(121代)の三朝に亘り仕えた。
経歴
[編集]天明2年(1782年)に叙爵してから清華家当主として早いスピードで昇進し、侍従・右近衛権少将/権中将などを歴任し、寛政元年(1789年)に従三位となり、公卿に列する。その後も権中納言、権大納言、踏歌節会外弁・内弁を経て、文政4年(1821年)には右近衛大将・右馬寮御監となる。文政7年(1824年)に従一位・内大臣となるも同年辞職。その後長く政界を離れていたが、安政4年(1857年)に右大臣に就任している。