大谷武一
大谷 武一(おおたに ぶいち、1887年〈明治20年〉5月14日 - 1966年〈昭和41年〉1月29日)は、大正から昭和期の日本の学校体育指導者。ラジオ体操の考案者の1人[1]。ソフトボール競技、ハンドボール競技を日本へと紹介[1]。また、それまで「デッドボール」と呼ばれていた競技を「ドッジボール」に改名、主に学校体育において普及に努めた。ウェイトリフティング競技の普及にも寄与した。日本体育指導者連盟元会長。東京教育大学体育学部初代学部総長。兵庫県加西市出身。
略歴
[編集]- 1904年 姫路師範学校卒業
- 1913年 東京高等師範学校卒業
- 1914年 東京高等師範学校助教授
- 1917年 文部省留学生として渡米(~21年)帰途、欧州諸国(イギリス、フランス、ドイツ、ベルギー、スウェーデン、フィンランドなど)を視察
- 1921年 ソフトボール競技を日本に紹介
- 1922年 ハンドボール競技を日本に紹介(7月 大日本体育学会体育夏期講習会)
- 1928年 文部省ラジオ体操検討委員(体育研究所技師)
- 1930年 日本体操連盟設立(副会長)[2]
- 1932年 ロサンゼルスオリンピック参加(体操競技総監督)[2]
- 1936年 ベルリンオリンピック参加(体操競技総監督)
- 1937年 日本重量挙連盟設立
- 1938年 日本ハンドボール協会設立(副会長)
- 1949年 日本ソフトボール協会設立(顧問)
- 1950年 日本体操学会設立(理事長)
- 1951年 東京学芸大学教授
- 1952年 東京教育大学名誉教授
- 1960年 日本体操学会会長
- 1962年 紫綬褒章、天理大学体育学部長退任[2]
- 1965年 勲三等旭日中綬章
- 1966年 従三位
死
[編集]晩年の大谷は脳動脈硬化症を患い療養していたが、急性肺炎を併発し、1966年1月29日午後11時に自宅にて逝去した[1]。葬儀・告別式は青山斎場にて2月3日午後1時から営まれ、568人が参列、347通の弔電と40個の生花・花輪が寄せられた[1]。
人物
[編集]一見すると厳しい人物に見えたが、温厚篤実な人で、姫路の母校に帰ったときには多くの人に囲まれた[3]。そのため実家に帰る時間が無くなってしまったが、夜を徹して山越えを含む10里の道を自転車と徒歩で踏破し、父母に会いに行った[3]。酒と談笑を好み、「楽酒の会」を結成して酒を酌み交わしながら仲間と会話を楽しんだという[3]。
著作
[編集]著書は数十冊に及ぶ[2]。
- 『正常歩』(目黒書店、1941年)
- 『大谷武一体育選集』(杏林書院体育の科学社、1960年-1967年)
親族
[編集]息子の大谷旦は舞踊家で、大谷武一の葬儀で喪主を務めた[1]。孫[4]の大谷勝は「Dr.アミノ」の異名を持ち、アミノバイタルを開発した人物で[5]、大谷武一の故郷・加西市で講演を行ったこともある[4]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 「大谷武一先生のご逝去を悼む」『新体育』第36巻第3号、新体育社、1966年3月、139-146頁。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 大谷武一さん(学校の自慢 - 加西市立賀茂小学校) - Internet Archiveによる2015年10月20日時点でのアーカイブ。