大鶴多喜之助
大鶴 多喜之助(おおつる たきのすけ、1905年1月1日[1] - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。荒磯部屋→春日野部屋所属[2]。本名は宮川→槙勇[2]。最高位は十両7枚目[1]。
経歴
[編集]北海道釧路市出身[1]。荒磯部屋に入門し、1923年5月「大寉」の四股名で序ノ口に就く[2](のち春日野部屋に移籍)。1929年1月十両に昇進[1]。2場所続けて負け越したため、5月に幕下に落ちた。1930年1月再十両。この場所は3勝8敗と負け越したが、翌3月は6勝5敗と勝ち越し、十両での唯一の勝ち越しとなる。当時は2場所の成績で番付を作成されたため、合計の成績が9勝13敗と負け越しとなったため再び幕下に落ちた。「大鶴」と改名した1931年1月三回目の十両昇進となったが、この場所と翌場所も負け越し、5月に幕下に落ちた。1932年1月に再び十両に上がったが、春秋園事件により脱退し[1]、新興力士団を経て、関西角力協会に入った。
改名
[編集]大寉(読みは同じ)→大鶴
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 小池謙二『大相撲星取大鑑』昭和編第1巻、医聖社、1986年
- 昭和の大相撲刊行委員会/編『昭和の大相撲 資料編』TBSブリタニカ、1989年