姚珽

姚 珽(よう てい、641年 - 714年)は、唐代官僚本貫湖州武康県

経歴

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姚璹の弟にあたる。若くして学問を好み、苦労して自立した。明経に挙げられ、定州汴州滄州虢州豳州などの刺史を歴任した。銀青光禄大夫の位を加えられ、秦州刺史に転じた。善政で知られ、璽書により褒賞された。神龍元年(705年)、宣城郡公に封じられた。三度異動して太子詹事となり、太子左庶子を兼ねた。ときに節愍太子李重俊に不法のことがあり、姚珽は前後して上書し諫めた。李重俊は姚珽の上書を良いものと認めたが、態度を改めることはなかった。神龍3年(707年)、李重俊が敗北すると、東宮の中を捜索されて、姚珽の諫書が発見され、中宗はその厳正ぶりを称賛した。ときに東宮の臣はみな左遷されたが、ひとり姚珽は右散騎常侍の位を受けた。1年あまりして、秘書監に転じた[1][2]

景雲元年(710年)、睿宗が復位すると、姚珽は戸部尚書に任じられ、太子賓客に転じた。先天2年(713年)、金紫光禄大夫の位を加えられ、再び戸部尚書となった。開元2年(714年)、死去した。享年は74。著書に『漢書紹訓』40巻があった[3][4]

子女

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  • 姚昌源[5]
  • 姚昌潤(宣州刺史)[5]
  • 姚昌温[6]
  • 姚昌済[6]

脚注

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  1. ^ 旧唐書 1975, pp. 2904–2907.
  2. ^ 新唐書 1975, pp. 3981–3982.
  3. ^ 旧唐書 1975, p. 2907.
  4. ^ 新唐書 1975, p. 3982.
  5. ^ a b 新唐書 1975, p. 3169.
  6. ^ a b 新唐書 1975, p. 3170.

伝記資料

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参考文献

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  • 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2 
  • 『新唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00320-6