孟昶
後主 孟昶 | |
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後蜀 | |
第2代皇帝 | |
王朝 | 後蜀 |
在位期間 | 明徳元年7月29日 - 広政28年1月19日 (934年9月10日 - 965年2月23日) |
都城 | 成都 |
姓・諱 | 孟仁賛→孟昶 |
字 | 保元 |
諡号 | 睿文英武仁聖明孝皇帝 |
生年 | 貞明5年11月14日 (919年12月9日) |
没年 | 乾徳3年6月11日 (965年7月12日) |
父 | 高祖 |
母 | 李氏 |
年号 | 明徳 : 934年 - 937年 広政 : 938年 - 965年 |
孟 昶(もう ちょう)は、十国後蜀の第2代(最後)の皇帝。もとの名は仁賛。高祖孟知祥の五男。後世の史家からは後主と呼ばれている。
生涯
[編集]若い頃は行軍司馬を務め、明徳元年(934年)に父が皇帝として自立すると東川節度使に任じられた。
高祖の崩御により即位すると、不法をほしいままにしてきた旧臣の李仁罕や張業らを誅殺し、農業養蚕を推奨し、科挙を実施して国内の安定を図った。また諫言に耳を傾けることで政治改革も実行している。
後主はまた文化を愛好し、彼の後宮には花蕊夫人のような、詩才に優れた女性もいた。
しかし晩年は奢侈に溺れて国政を省みず、国内から女性を選抜して後宮を拡張したり、名宝の蒐集に力を注いだりしたので、朝政は大いに乱れた。
広政18年(955年)に西北四州が後周に奪われると、その版図も次第に周辺から侵食されるようになる。広政27年(964年)には宋の侵攻を受けるに至り、広政28年(965年)に宋に降伏したことで後蜀は滅亡した。
亡国後は検校太師兼中書令・秦国公に封じられ、乾徳3年(965年)に開封で死去したが、趙光義(後の太宗)による毒殺説もある。死後は楚王に追封され、恭孝の諡が贈られた。
宗室
[編集]后妃
[編集]- 慧妃費氏(花蕊夫人)
- 貴妃 張太華
- 昭儀 李艶娘
男子
[編集]- 孟玄喆
- 褒王 孟玄玨
- 遂王 孟玄珤
女子
[編集]- 鳳儀公主
- 鑾国公主
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