宇治上神社

宇治上神社

本殿(国宝
所在地 京都府宇治市宇治山田59
位置 北緯34度53分31.4秒 東経135度48分41.1秒 / 北緯34.892056度 東経135.811417度 / 34.892056; 135.811417 (宇治上神社)座標: 北緯34度53分31.4秒 東経135度48分41.1秒 / 北緯34.892056度 東経135.811417度 / 34.892056; 135.811417 (宇治上神社)
主祭神 菟道稚郎子命
応神天皇
仁徳天皇
社格 式内社(小)
村社
創建 不詳
本殿の様式 五間社流造(内殿に一間社流造3棟)
別名 離宮明神
例祭 5月1日
地図
宇治上神社の位置(京都府内)
宇治上神社
宇治上神社
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鳥居

宇治上神社(うじがみじんじゃ/うじかみじんじゃ)は、京都府宇治市宇治山田にある神社式内社で、旧社格村社[1]。隣接する宇治神社とは対をなす。

ユネスコ世界遺産に「古都京都の文化財」の構成資産の1つとして登録されている。

祭神

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祭神は次の3柱。

  • 左殿:菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)
    『日本書紀』では「菟道稚郎子」、『古事記』では「宇遅之和紀郎子」と表記される。応神天皇皇子。天皇に寵愛され皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという話で知られる。
  • 中殿:応神天皇
    第15代天皇。菟道稚郎子命の父。
  • 右殿:仁徳天皇
    第16代天皇。菟道稚郎子命の異母兄。

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳で「宇治神社二座」と見える2座のうち1座に比定される。この「二座」を祭神と見た場合、菟道稚郎子を1座とすることは動かないものの、もう1座については父の応神天皇・異母兄の仁徳天皇・母の矢河枝比売とする諸説がある[2]

歴史

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創建

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創建年代などの起源は明らかではない。宇治上神社のすぐ近くには宇治神社があるが(北緯34度53分27.77秒 東経135度48分38.52秒 / 北緯34.8910472度 東経135.8107000度 / 34.8910472; 135.8107000 (宇治神社))、宇治上神社とは二社一体の存在であった[3]。宇治上神社の境内は『山城国風土記』に見える菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」の旧跡であると伝え、両社旧称の「離宮明神」もそれに因むといわれる[3]

宇治上神社の境内には「天降石」・「岩神さん」と呼ばれる巨石があり、磐境信仰による創祀という説もある[3][2]

概史

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延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では山城国宇治郡に「宇治神社二座 鍬靫」の記載があるが、その2座はそれぞれ宇治神社・宇治上神社に比定される[3]。なお、宇治上神社の本殿は本来左右2棟であるとして、「宇治神社二座」は宇治上神社のみを指すという説もある(3棟の建築年代については後述)。神名帳の「鍬靫」の記載は、祈年祭の際に朝廷から鍬・靫の奉献があったことを意味する。近くに平等院ができると、両社はその鎮守社とされたという。

明治以前は宇治上神社は「上社」・「本宮」、宇治神社は「下社」・「若宮」と呼ばれたほか、両社を合わせて「宇治離宮明神」・「宇治離宮八幡宮」と総称された[3]

明治に入って宇治神社とは分離し、近代社格制度では村社に列した。

2004年平成16年)2月の奈良文化財研究所や宇治市などによる年輪年代測定調査では、本殿は1060年頃のものとされて「現存最古の神社建築」であることが裏付けられた。また、永承7年(1052年)創建の平等院との深い関連性が指摘されている。

境内

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拝殿(国宝)
  • 本殿(国宝) - 平安時代後期の造営で、神社建築としては現存最古とされる。流造、桁行5間(正面)、梁間(側面)3間、檜皮葺きの建物内に、一間社流造の内殿3棟が左右に並ぶ(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する)。内殿は左殿(向かって右)に菟道稚郎子命、中殿に応神天皇、右殿(向かって左)に仁徳天皇を祀る(左殿・中殿・右殿を順に第一殿・第二殿・第三殿ともいう)。左殿と右殿は組物が三斗で、組物間に蟇股を置くなど、形式・規模がほぼ等しいが、細部の様式から左殿の方が年代が上がるとみられる。中殿は左右殿より規模が小さく、組物を舟肘木とし、蟇股を用いないなど、形式にも違いがある。外側の桁行5間、梁間3間の建物は内殿の覆屋にあたるが、内殿と覆屋は構造的に一体化しており、左殿と右殿の側廻りや屋根部分は覆屋と共通になっている。左殿と右殿の内陣扉内側には彩絵があり、建物とは別個に「絵画」として重要文化財に指定されている。左殿の扉絵は唐装の童子像2体、右殿の扉絵は束帯・持笏の随身像2体で、剥落が多いが、平安時代にさかのぼる垂迹画の作例として貴重である。この本殿は国宝に指定されている[4]
  • 拝殿(国宝) - 鎌倉時代前期の造営で、寝殿造の遺構といわれる。切妻造、檜皮葺き。桁行6間、梁間3間の主要部の左右に各1間の庇を付す。桁行6間のうち、向かって左端の1間は柱間が狭く、隣接する庇部分とともに閉鎖的な1室を構成する。建物右端の庇部分も1室となり、これらに挟まれた中央の桁行5間 x 梁間3間分を広い1室とする。屋根は切妻造平入りの屋根の左右端に片流れの庇屋根を設ける。切妻屋根と庇屋根の接続部で軒先の線が折れ曲がっており、こうした形を縋破風(すがるはふ)と称する。周囲に榑縁(くれえん)をめぐらし、内部は板床と天井を張り、蔀戸を多用した住宅風の構えである。この拝殿は、本殿同様に国宝に指定されている[5]

その他

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  • 天降石 - 「岩神さん」とも呼ばれている。「隕石である」、や「かつて何らかの社があった跡」ともいわれる。磐境信仰による創祀という説もある。
  • 桐原水 - 桐原水と称される湧き水があり、「宇治七名水」のうちでは唯一現存するものである。
  • 表門
  • 社務所

摂末社

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春日社(国の重要文化財

祭事

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  • 歳旦祭 (1月1日)
  • 日待祭 (1月15日)
  • 春季例大祭 (5月1日-5日) - 宇治市槙島町の氏子が5月5日の本祭を執り行う。
  • 新茶献茶式 (6月1日) - 上林春松、福寿園、辻利兵衛、中村藤吉等が参列。献茶担当は瑞芳菴流煎茶道
  • 八朔祭 (9月1日) - 通称「砂持ち」。
  • 日待祭 (10月14日)
  • 新嘗祭 (12月15日)

文化財

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国宝

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  • 本殿(建造物)
    平安時代後期の造営。1902年明治35年)4月17日に古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定、1950年昭和25年)の文化財保護法施行により重要文化財に指定、1952年(昭和27年)3月29日に国宝に指定[7]
  • 拝殿(附 桟唐戸4枚、蟇股1箇)(建造物)
    鎌倉時代前期の造営。1902年(明治35年)7月31日に古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定、1950年(昭和25年)の文化財保護法施行により重要文化財に指定、1952年(昭和27年)11月22日に国宝に指定[8]

重要文化財(国指定)

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本殿扉絵
(国の重要文化財)
右殿の随身像。
  • 摂社春日神社本殿(建造物)
    鎌倉時代後期の造営。1912年(明治45年)2月8日に古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定、1950年(昭和25年)の文化財保護法施行により重要文化財に指定[6]
  • 本殿扉絵(板絵著色) 4面(絵画)
    第一殿に童子像2枚、第三殿に随身像2枚。平安時代の作。1977年(昭和52年)6月11日指定[9]

京都府指定有形文化財

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  • 末社厳島社
  • 末社香椎宮
  • 末社武本稲荷社
  • 宇治上神社文書 1,060点

現地情報

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所在地

交通アクセス

周辺

脚注

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  1. ^ 『京都府神社略記』京都府神職会(1936年)
  2. ^ a b 『日本の神々』宇治上神社・宇治神社項。
  3. ^ a b c d e 『京都府の地名』宇治上神社項・宇治神社項。
  4. ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝』74号、pp.8 - 124 - 8 - 125
  5. ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝』74号、pp.8 - 125 - 8 - 126
  6. ^ a b 宇治上神社摂社春日神社本殿 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  7. ^ 宇治上神社本殿 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  8. ^ 宇治上神社拝殿 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  9. ^ 本殿扉絵(板絵著色) - 国指定文化財等データベース(文化庁

参考文献

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  • 日本歴史地名大系 京都府の地名』(平凡社)宇治市 宇治上神社項・宇治神社項
  • 山路興造「宇治上神社・宇治神社」(谷川健一 編『日本の神々 -神社と聖地- 5 山城・近江』(白水社、1986年) ISBN 978-4560025055
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝』74号、朝日新聞社、1998(宇治上神社の解説は熊本達哉)

関連項目

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外部リンク

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