宍戸就俊
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長6年(1601年) |
死没 | 寛文11年9月4日(1671年10月6日) |
別名 | 通称:小平太→八郎左衛門尉 |
戒名 | 栢庵幻庭居士 |
官位 | 大学頭、丹後守 |
主君 | 毛利秀就→綱広 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 宍戸氏 |
父母 | 父:宍戸元続 |
兄弟 | 広匡、就俊、元高 |
子 | 就繁 |
宍戸 就俊(ししど なりとし)は、江戸時代前期の長州藩士。父は毛利氏重臣の宍戸元続。
生涯
[編集]慶長6年(1601年)、毛利氏の重臣である宍戸元続の次男として生まれる。
元和6年(1620年)10月16日、父・元続に隠居分として与えられていた1000石の地を相続することを毛利輝元・秀就父子に認められ、秀就から「就」の偏諱と大学頭の官途名を与えられた。
さらに、寛永9年(1632年)6月1日には「八郎左衛門尉」の官途名を、慶安元年(1648年)12月30日には丹後守の受領名を秀就から与えられた。
参考文献
[編集]- 『萩判閥閲録』巻24「宍戸宮内」