定康王
定康王 金晃 | |
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新羅 | |
第50代国王 | |
王朝 | 新羅 |
在位期間 | 886年8月8日 - 887年7月28日 |
諡号 | 定康大王 |
生年 | ? |
没年 | 光啓3年7月5日 (887年7月28日) |
父 | 景文王 |
母 | 文懿王后 |
定康王 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 정강왕 |
漢字: | 定康王 |
発音: | チョンガンワン |
日本語読み: | ていこうおう |
ローマ字: | Jeonggang Wang |
定康王(ていこうおう、生年不詳 - 887年7月28日)は、新羅の第50代の王(在位 : 886年 - 887年)であり、姓は金、諱は晃(こう)。第48代景文王の次男[1]であり、先代の憲康王の同母弟。母は第47代憲安王の娘の文懿王后[2]。886年7月5日に先代の憲康王が死去し、その子ども(後の孝恭王)がまだ1歳に満たなかったので、王弟の晃が王位に就いた。
治世
[編集]先代の憲康王に倣うように、887年1月に皇龍寺で百高座を設け、王自らも行幸して講義を聞いた。同月、漢州(京畿道広州市)の伊飡(2等官)の金蕘(きんじょう)が反乱を起こし、王は派兵して金蕘を誅殺させた。
乱の平定の後、5月に王は病を得て倒れた。その際に「自分には嗣子がおらず、妹(後の真聖女王)が聡明であるので王位につけるように」と遺言し、7月5日に死去した[3]。定康王と諡されて菩提寺(慶尚北道慶州市排盤洞の西南部)の東南に埋葬されたといい、その陵墓は慶州市南山洞の史跡第186号が比定されている[4]。
脚注
[編集]- ^ 『三国遺事』王暦では閔哀王(第44代、在位 : 838年 - 839年)の同母弟と記しているが、在位年に50年の開きがあるので、『三国史記』新羅本紀・定康王紀による系譜が正しいとされている。→井上訳注1980 p. 387 注36.
- ^ 『三国史記』新羅本紀・憲康王紀による。また、『三国遺事』王暦・憲康王条では、憲康王の母を文資王后とする。
- ^ 『三国史記』新羅本紀・真聖女王即位紀の分注には崔致遠の『文集』第二巻「謝追贈表」を引用して、憲康王の死去を光啓3年(887年)とし、その後を継いだ定康王もまた1年と経たないうちに死去したという。分注はさらに「定康王晃は光啓3年に薨去した。本紀には2年に薨去したとしている。どちらが正しいのかわからない」と続けている。なお、新羅本紀の憲康王紀の末文(「秋七月五日。薨。諡憲康。葬菩提寺東南。」)と定康王紀の末文(「秋七月五日。薨。諡定康。葬菩提寺東南。」)とは、諡の一部を違えるだけで残りは一致している。
- ^ 定康王陵に比定される陵墓(史跡第186号)は、先代の憲康王陵(史跡第187号)と並んでいる。
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- 『三国史記』第1巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980 ISBN 4-582-80372-5
- 『完訳 三国遺事』一然著 金思燁訳、明石書店、1997 ISBN 4-7503-0992-3(原著『完訳 三国遺事』六興出版、1980)
外部リンク
[編集]- 慶州市公式サイト#文化遺産(国会指定文化財-史跡)