室賀正俊
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長15年(1610年) |
死没 | 延宝9年4月22日(1681年6月8日) |
別名 | 源七郎(通称) |
諡号 | 意休(法名) |
墓所 | 宗参寺(東京都新宿区) |
官位 | 従五位下、下総守 |
主君 | 徳川家光→徳川綱吉 |
氏族 | 屋代氏→室賀氏 |
父母 | 父:屋代秀正、養父:室賀満俊 |
兄弟 | 屋代忠正、室賀正俊 |
妻 | 上田重秀の娘 |
子 | 娘(室賀正信室)、室賀正勝、娘(佐野政信室)、娘(舟橋玄恂室) 養子:室賀正信、養女(正信の娘、嶋一信室) |
室賀 正俊(むろが まさとし)は、江戸時代前期の武士。江戸幕府旗本、館林藩附家老。屋代秀正の次男。
生涯
[編集]慶長15年(1610年)、徳川氏の家臣・屋代秀正の次男として誕生。のち叔父の室賀満俊の養子となる。
元和7年(1621年)より江戸幕府3代将軍・徳川家光に仕える。寛永3年(1626年)、養父・満俊の跡を継いで1000石を知行し、小姓組番士となる。寛永10年(1633年)に200石を加増。寛永16年(1639年)に小十人頭となる。
慶安元年(1648年)、家光の子で館林藩主・徳松(徳川綱吉)の附家老とされ、武蔵国・上野国内の1800石を加増されて所領が3000石となる。承応2年(1653年)に従五位下、下総守に叙任。寛文元年(1661年)、武蔵国・上野国内で更に4200石を加えられ、7200石を知行する。寛文3年(1663年)、1200石を婿養子・正信に分知し、致仕。
嫡男・正勝の時、綱吉が将軍になると幕臣に復し、子孫は5500石の大身の旗本として存続した。養子の正信は中山直定の四男で、正俊の娘を娶り別家を創設した。