小笠原信成
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝永6年5月12日(1705年7月2日) |
死没 | 享保15年7月14日(1730年8月27日) |
改名 | 斎宮(幼名)、信成 |
別名 | 弾正(通称) |
戒名 | 承徳院殿仁艘量寛大居士 |
墓所 | 東京都台東区松が谷の海禅寺 福井県勝山市の開善寺 |
官位 | 従五位下、能登守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 越前勝山藩主 |
氏族 | 酒井氏→小笠原氏 |
父母 | 父:酒井忠隆、養父:小笠原信辰 |
妻 | 正室:小笠原信辰の娘 |
子 | 実子なし、養子:信胤 |
小笠原 信成(おがさわら のぶなり)は、越前勝山藩の第3代藩主。信嶺系小笠原家5代。
生涯
[編集]宝永2年(1705年)5月12日、旗本・酒井忠隆(酒井忠次の曾孫[1])の四男として江戸で生まれる。享保5年(1720年)7月4日、越前勝山藩第2代藩主・小笠原信辰の養子となり、享保6年(1721年)4月25日に信辰が隠居したため家督を継いだ。
享保9年(1724年)、享保12年(1727年)に大坂加番に任じられ、享保11年(1726年)に火山性地震で領内に大被害を受けるなど、出費が重なって藩財政は悪化した。享保15年(1730年)2月に再び大坂加番に任じられたが、病気に倒れて赴任できないまま死去した。享年26。
系譜
[編集]父母
正室
- 小笠原信辰の娘
養子
脚注
[編集]- ^ 酒井忠村の子で、酒井忠知の孫。