小笠原常春
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛文6年(1666年) |
死没 | 延享4年2月12日(1747年3月22日) |
改名 | 常政/貞政(初名)→常春 |
別名 | 通称:主水、権八郎、平兵衛 |
墓所 | 浅草の長徳院 |
幕府 | 徳川幕府 旗本 |
主君 | 徳川家綱→綱吉→家宣→家継→吉宗→家重 |
氏族 | 赤沢氏系小笠原氏 |
父母 | 父:小笠原直経、母:某氏 |
兄弟 | 時経[1]、宇右衛門[1]、総十郎、常春、女子 |
妻 | 松平重良養女(戸田忠吉の女) |
子 | 常喜、松平勘敬、丸毛利広、松平信興[2]の妻 |
小笠原 常春(おがさわら つねはる)は、江戸時代前期から中期にかけての旗本。徳川吉宗が主導した騎射の諸儀式の復興に関与し、幕府の騎射師範役となった。子孫も同様の役を務め、現在の小笠原流(弓馬術礼法小笠原教場)宗家に続いている。
略歴
[編集]寛文6年(1666年)、旗本・小笠原直経の四男として誕生。延宝6年(1678年)2月18日、4代将軍・徳川家綱に拝謁し、同年12月6日に家督を相続し寄合に列する。天和3年(1683年)閏5月21日小姓組に列し、元禄2年(1689年)2月13日桐間番に移り、同年4月21日小姓に進んだが、9月29日、「ゆえありて」小普請に落とされた。元禄3年(1690年)5月10日大番に列し、元禄9年(1696年)7月4日御小納戸に移り、元禄10年(1697年)閏2月7日大番に復する。同年7月26日、廩米500俵を改め、下野国梁田郡、安蘇郡、都賀郡のうちに采地を賜る(知行500石)。
元禄11年(1698年)、5代将軍・徳川綱吉の養女八重姫の水戸徳川家への輿入れの式を承り、時服2領黄金2枚を賜ったのを初め、この後も度々将軍家の姫の輿入式の任にあたる。
宝永5年(1708年)12月3日小姓組番士となり、正徳3年(1713年)3月18日次期将軍徳川家継の元服の式を書し、正徳5年(1715年)1月11日徒士頭となり、享保2年(1717年)1月11日目付に転ずる。
享保9年(1724年)10月25日、幕臣に流鏑馬、笠懸を師範する任を承り、将軍の台覧の際に時服3領を賜る。また享保11年(1726年)2月2日番士の輩に騎射を師範する任を承り、将軍の台覧の際に時服3領を賜る。これより赤沢小笠原家(小笠原平兵衛家)は代々幕府の騎射師範役となる[3]。
享保13年(1728年)、天然痘を罹患した徳川家重の快癒祈願のため、流鏑馬を興行する。享保14年(1729年)9月28日新番の頭に転じ、元文2年(1737年)6月2日徳川家治誕生の際にその礼式を承り、時服2領黄金2枚を賜る。元文3年(1738年)2月21日幕命により流鏑馬を興行し時服2領黄金3枚を賜る。元文4年(1739年)1月11日御槍奉行に転じ、元文5年(1740年)5月23日吹上御所にて、幕臣による騎射を将軍の台覧に供じる。
延享2年(1745年)8月7日老齢を理由に職を辞し、寄合に列し、時服3領を賜る。延享3年(1746年)4月5日致仕し、養老の廩米300俵を賜る。延享4年(1747年)死去。享年82。浅草の長徳院に葬られた。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 堀田正敦 編「巻第百九十四 淸和源氏 義光流」『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜』 第1輯、國民圖書、1922年12月30日。全国書誌番号:21329090 。