尚泰王
尚 泰王 しょう たいおう | |
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琉球国王・琉球藩王 | |
晩年の尚泰 | |
在位 | 琉球国王:1848年6月8日 - 1872年10月16日 琉球藩王:1872年10月16日 - 1879年4月4日 |
別号 | 思次良金(幼名) 朝憲(名乗) |
全名 | 尚泰 |
出生 | 1843年8月3日(道光23年7月8日) 琉球王国首里(現在の沖縄県那覇市) |
死去 | 1901年8月19日(58歳没) 東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区) |
埋葬 | 1901年(明治34年)8月29日 沖縄県首里区金城、玉陵 (現在の沖縄県那覇市首里金城町) |
配偶者 | 章賢室 佐敷按司加那志(妃) |
真鶴金・松川按司(夫人) | |
真鶴金・平良按司(夫人) | |
子女 | |
王朝 | 第二尚氏 |
父親 | 尚育王 |
母親 | 向元貞 佐敷按司加那志 |
尚 泰王(しょう たいおう、1843年8月3日〈道光23年7月8日〉- 1901年〈明治34年〉8月19日)は、第二尚氏王統第19代にして最後の琉球国王(在位:1848年6月8日 - 1872年10月16日)、後に日本の華族として琉球藩王(在位:1872年10月16日 - 1879年4月4日)、侯爵。童名は思次良金。父は、第18代国王尚育王。
生涯
[編集]1848年6月8日(道光28年5月8日)にわずか4歳(数え年では6歳)にして即位した。
1853年(咸豊3年)にはペリーが琉球に来航し、翌1854年に琉米修好条約を締結した。さらに、1855年には琉仏修好条約、1859年には琉蘭修好条約を結んだ。
元来、琉球は薩摩藩の附庸国かつ清の朝貢国として一定の独自性を保っていたが、他府県の廃藩置県も済んだ翌年の1872年(同治11年、明治5年)に、日本は琉球国王尚泰を琉球藩王に封じて華族とし、東京に藩邸を与えた。そうして1879年(光緒5年、明治12年)の琉球処分により琉球藩に沖縄県が設置されると、藩王の地位は無くなり居城の首里城も出ることとなり、琉球藩は消滅した。尚泰たちは琉球王家の屋敷の一つ中城御殿に移ったが、明治政府より東京移住を命令され、華族として東京へ居を移した。次男の尚寅、四男の尚順は後に沖縄に帰ってきている。
のち華族令の発令に伴って、1885年(明治18年)5月2日、尚泰は侯爵となった[1]。帝国議会の開設に伴い1890年(明治23年)2月、貴族院侯爵議員に就任[2]。1901年(明治34年)に急性腸カタルのため59歳で没[3]。墓所は那覇市の琉球王家の陵墓・玉陵(たまうどぅん)。なお、尚家は現在も存続している。
「命どぅ宝」は尚泰王の言葉といわれているが、実際は後年に創作された演劇中の台詞である。
栄典
[編集]- 1879年(明治12年)6月17日 - 従三位[4]
- 1885年(明治18年)5月2日 - 侯爵[1]
- 1887年(明治20年)12月26日 - 正三位[5]
- 1892年(明治25年)7月5日 - 従二位[6]
- 1897年(明治30年)7月2日 - 正二位[7]
- 1901年(明治34年)8月19日 - 従一位[8]
冊封使(1866年)
[編集]家族
[編集]- 父:尚育王
- 母:向元貞(尚育王妃・佐敷按司加那志)
- 妃:章賢室・佐敷按司加那志(童名は思戸金)
- 夫人
- 真鶴金・松川按司(父は毛其昌・美里親方安綱)
- 真鶴金・平良按司(父は高宮城親方朝功)
- 妻
- 山本テウ
- 片山テイ
- 松本コウ
- 田中コウ
- 神田ナツ
- 田中ハナ
- 子女
脚注
[編集]伝記
[編集]- 川畑恵『尚泰 最後の琉球王』山川出版社〈日本史リブレット人〉、2019年
参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
関連項目
[編集]日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 | 侯爵 尚家初代 1885年 - 1901年 | 次代 尚典 |
その他の役職 | ||
先代 尚育 | 第二尚氏当主 第19代:1848年 - 1901年 | 次代 尚典 |