山崎治頼
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶安3年(1650年) |
死没 | 明暦3年3月6日(1657年4月19日) |
改名 | 虎之助、治頼 |
戒名 | 天心院殿宗春栄覚童子 |
墓所 | 東京都港区愛宕の青松寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱 |
藩 | 讃岐丸亀藩主 |
氏族 | 近江山崎氏 |
父母 | 山崎俊家 |
山崎 治頼(やまざき はるより)は、江戸時代前期の大名。讃岐国丸亀藩3代藩主。
略歴
[編集]慶安3年(1650年)、丸亀藩2代藩主・山崎俊家の長男として誕生。幼名は虎之助。
慶安4年(1651年)10月、父の死去により翌年2月8日に僅か3歳で家督を継いだ。このとき、叔父山崎豊治に讃岐国仁保5,000石を分知し後見人としている。しかし明暦3年(1657年)3月6日、死去。享年8。戒名は天心院殿宗春栄覚童子。墓所は東京都港区愛宕の青松寺。山崎氏は無嗣断絶で改易となった。
ただし、後見人である叔父の豊治は、江戸幕府より讃岐国仁保5,000石の所領を安堵され、名跡相続を許されている。更に万治元年(1659年)には山崎家の故地である備中国川上郡成羽領5,000石に所領替えとなった。その後、子孫は交代寄合表向御礼衆として存続し、維新立藩によって大名家として復活を遂げ廃藩置県に至っている。