川岸文三郎
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川岸 文三郎 | |
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川岸文三郎(1931年) | |
生誕 | 1882年1月1日 群馬県 |
死没 | 1957年6月16日(75歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1903 - 1939 |
最終階級 | 陸軍中将 |
指揮 | 東部防衛司令官 第20師団長 独立混成第11旅団長 近衛歩兵第4連隊長 |
戦闘 | 日露戦争 日中戦争 |
墓所 | 多磨霊園 |
川岸 文三郎(かわぎし ぶんざぶろう、1882年1月1日 - 1957年6月16日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]群馬県出身。川岸虎造の二男として生まれる。太田中学校を経て、1903年11月、陸軍士官学校(15期)を卒業、翌年3月、歩兵少尉任官。日露戦争では、歩兵第3連隊付として出征した。1911年11月、陸軍大学校(23期)を卒業。
清国駐屯軍司令部付、参謀本部員、参謀本部付(上海)、支那駐屯軍参謀、近衛歩兵第2連隊大隊長、参謀本部員、関東軍司令部付、参謀本部員、第1師団参謀などを歴任し、1924年2月、侍従武官となった。
近衛歩兵第4連隊長を経て、1931年8月、陸軍少将となり再び侍従武官に就任。独立混成第11旅団長を経て、1935年8月、陸軍中将となった。第12師団司令部付、第12師団留守司令官などを歴任し、第20師団長在任時に日中戦争が勃発し動員され、華北地方を転戦した。東部防衛司令官などを経て、1939年12月、予備役に編入された。
のち、朝鮮連盟事務局総長、興亜練成所長、大東亜練成院第1部長を歴任した。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。
栄典
[編集]- 位階
- 1904年(明治37年)5月17日 - 正八位[2]
- 1905年(明治38年)8月18日 - 従七位[3]
- 1910年(明治43年)9月30日 - 正七位[4]
- 1915年(大正4年)10月30日 - 従六位[5]
- 1920年(大正9年)11月30日 - 正六位[6]
- 1931年(昭和6年)2月2日 - 正五位[7]
- 1935年(昭和10年)9月2日 - 従四位[8]
- 勲章
親族
[編集]- 娘婿 水町勝城(陸軍中佐)
脚注
[編集]- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」53頁。
- ^ 『官報』第6267号「叙任及辞令」1904年5月24日。※山岸文三郎と誤記載。
- ^ 『官報』第6648号「叙任及辞令」1905年8月26日。
- ^ 『官報』第8185号「叙任及辞令」1910年10月1日。
- ^ 『官報』第976号「叙任及辞令」1915年11月1日。
- ^ 『官報』第2500号「叙任及辞令」1920年12月1日。
- ^ 『官報』第1234号「叙任及辞令」1931年2月12日。
- ^ 『官報』第2606号「叙任及辞令」1935年9月7日。
- ^ 『官報』第1141号「叙任及辞令」1930年10月16日。
- ^ 『官報』第2129号「叙任及辞令」1934年2月8日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。