康帝 (東晋)
康帝 司馬岳 | |
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東晋 | |
第4代皇帝 | |
王朝 | 東晋 |
在位期間 | 咸康8年6月9日 - 建元2年9月26日 (342年7月27日 - 344年11月17日) |
都城 | 建康 |
姓・諱 | 司馬岳 |
字 | 世同 |
諡号 | 康皇帝 |
生年 | 大興5年(322年) |
没年 | 建元2年9月26日 (344年11月17日) |
父 | 明帝 |
母 | 明穆皇后庾氏 |
后妃 | 康献皇后褚氏 |
陵墓 | 崇平陵 |
年号 | 建元 : 343年 - 344年 |
康帝(こうてい)は、東晋の第4代皇帝。諱は岳、字は世同。明帝の次男。同母兄の成帝の死後に急遽皇位を継ぎ、在位2年ほどで早逝した。
生涯
[編集]咸和元年(326年)、呉王となり、翌年に琅邪王に改封された。咸和9年(334年)、散騎常侍を拝命され驃騎将軍が加わった。咸康5年(339年)、侍中・司徒となった[1]。
咸康8年(342年)、成帝が崩御した際、成帝には二人の幼い子(数え2歳の司馬丕と、数え1歳の司馬奕)がいたが、外戚としての専権を失うことを恐れた庾冰は「国難の時期に幼帝はふさわしくない」との名目を掲げて同母弟であった司馬岳が皇位に据えられた[1]。
短い治世のほとんどは後趙の石虎との戦いに費やされた。なお、この戦いの中で、後代に西府軍団を率いる桓温が頭角を現している。しかし、朝廷の実権は庾冰・庾翼兄弟が握ったまま皇帝としての力量は発揮できなかった。建元2年(344年)9月、式乾殿で崩じた。享年は23歳[1]。
宗室
[編集]脚注
[編集]伝記資料
[編集]- 『晋書』巻7 帝紀第7 康皇帝