建福帝
建福帝 | |
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阮朝 | |
7代皇帝 | |
国号 | 大南 |
王朝 | 阮朝 |
在位期間 | 1883年-1884年 |
都城 | 順化皇城(現フエ) |
姓・諱 | 阮福昊、阮福膺祜、阮福膺登 |
諡号 | 紹徳止孝淵睿毅皇帝 |
廟号 | 簡宗 |
別号 | 養善堂 |
生年 | 1869年2月12日 |
没年 | 1884年7月31日(15歳没) |
父 | 実父:堅太王阮福洪侅 養父:嗣徳帝 |
母 | 裴氏清 |
陵墓 | 陪陵 |
元号 | 建福 |
建福帝(けんふくてい、キエンフックてい、Kiến Phúc、1869年2月12日 - 1884年7月31日)は、阮朝の第7代皇帝(在位:1883年 - 1884年)。諱は阮福膺登(Nguyễn Phúc Ưng Đăng)、後に阮福膺祜(Nguyễn Phúc Ưng Hỗ)、阮福昊(Nguyễn Phúc Hạo)と改めた。
実子のいなかった嗣徳帝は3人の甥を養子としたが、その中で最年少だったのが建福帝である。養子の中では最も聡明で、嗣徳帝も彼を後継者にしようとしたが、慈裕皇太后(嗣徳帝の母)の反対で実現しなかった。
先代の協和帝が権臣阮文祥・尊室説と対立して毒殺されたあと、15歳で即位したが、建福帝も権臣の専横に不満を抱いていた。そのおり、建福帝は自分の養母である学妃(阮氏香、嗣徳帝の側室)と阮文祥が密通していることに気付き、彼らを処罰しようとした。しかし、それに気付いた阮文祥は先手を打ち、学妃に命じて建福帝が服用している薬に毒を盛らせた。
その2日後、建福帝は在位わずか半年にして16歳で崩御した。弟の咸宜帝が帝位を継いだ。
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