引田英雄
ひきた ひでお 引田 英雄 | |
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生年月日 | 1931年4月30日 |
没年月日 | 2002年8月19日(71歳没) |
出生地 | 日本 東京府豊多摩郡中野町(現在の東京都中野区) |
死没地 | 日本 兵庫県宝塚市 |
職業 | 映画監督 |
ジャンル | 劇場用映画、テレビ映画、PR映画 |
配偶者 | 引田富子 |
著名な家族 | 引田一郎 父 1男 |
主な作品 | |
『レジナと魔法のコイン』 『ブレーブスレポート』 『日本人のふるさと』 |
引田 英雄(ひきた ひでお、1931年4月30日[1] - 2002年8月19日[2])は、日本の映画監督である[1][2][3]。日本映画監督協会会員(物故会員)[3]。
人物・来歴
[編集]1931年(昭和6年)4月30日、東京府豊多摩郡中野町(現在の東京都中野区)に生まれる[1]。父は宝塚少女歌劇団理事長、宝塚音楽学校校長を歴任した引田一郎である[1]。出身は兵庫県とされることもある[2]。
第二次世界大戦後、大阪府立北野高等学校を卒業、日本大学藝術学部演劇学科に進学する[1]。同学在学中の1953年(昭和28年)、宝塚映画製作所(現在の宝塚映像)が製作した斎藤寅次郎監督の『かっぱ六銃士』に出演[1]、同作は東宝の配給で同年8月26日に公開された[4]。
1955年(昭和30年)、宝塚映画製作所助監督部に入社する[1]。同社で安田公義、並木鏡太郎らの助監督を務めた後、翌1956年(昭和30年)、東宝に移籍する[1]。1962年(昭和37年)に肺結核を罹患、4年間の休業を経て、宝塚映画製作所に復帰する[1]。
1968年(昭和43年)、テレビ映画『いのちある限り』で監督に昇進する[1]。テレビ映画を多く手がけ、1975年(昭和50年)、ブラジルとの合作による劇場用映画『レジナと魔法のコイン』を監督する[1]。1976年(昭和51年)から阪急ブレーブス(現在のオリックス・バファローズ)に関する情報ドキュメンタリーテレビ映画『ブレーブスレポート』を手がける[1]。
『ブレーブスレポート』を担当していた1980年(昭和55年)、脊椎カリエスを発症し闘病に入り、休業するが、1982年(昭和57年)には原職復帰する[1]。翌1983年(昭和58年)、同社が経営不振のために解散、宝塚映像として新設されるに当たって退職し、以降、フリーランスとなる[1]。
2002年(平成14年)8月19日16時50分、肝不全に肺炎を併発し、宝塚市内の病院で死去した[2]。満71歳没。
フィルモグラフィ
[編集]特筆以外はすべて監督、製作は特筆以外は宝塚映画、配給は特筆以外は東宝である[1]。
- 『かっぱ六銃士』 : 監督斎藤寅次郎、1953年8月26日公開 - 出演 [1]
- 『小早川家の秋』 : 監督小津安二郎、1961年10月29日公開 - 助監督 [1]
- 『士魂魔道 大龍巻』 : 監督稲垣浩、1964年1月13日公開 - 助監督 [1]
- ライオン奥様劇場『いのちある限り』 : テレビ映画シリーズ、フジテレビジョン、1968年4月8日 - 同年5月24日放映 - 監督(初監督作) [1]
- 『マキちゃん日記』 : テレビ映画シリーズ、日本テレビ放送網、1969年10月7日 - 1970年9月27日放映 [5]
- 宝塚映画シリーズ『佐野洋サスペンスアワー 二つの顔』 : テレビ映画シリーズ、関西テレビ放送、1970年10月2日 - 1971年3月26日放映 [1]
- 『罪ある花』 : テレビ映画シリーズ、フジテレビジョン、1972年7月24日 - 同年10月27日放映 [1]
- 『藍は愛ゆえに』 : テレビ映画シリーズ、北日本放送、1974年1月4日 - 同年2月放映
- ライオン奥様劇場『良人の貞操』 : テレビ映画シリーズ、フジテレビジョン、1975年2月24日 - 同年4月11日放映 [1]
- 『レジナと魔法のコイン』 : ブラジル・日本合作映画、1975年 [1]
- 『ブレーブスレポート』 : 情報ドキュメンタリーテレビ映画シリーズ、関西テレビ放送、1976年 - 1980年放映
- 『日本人のふるさと』 : 博展映像、松下館、国際科学技術博覧会、1985年 [1]
註
[編集]外部リンク
[編集]- 引田英雄 - テレビドラマデータベース
- 引田英雄 - 日本映画監督協会
- 引田英雄氏死去 映画監督 - ウェイバックマシン(2016年3月4日アーカイブ分) - 47NEWS