愛宕通旭
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
---|---|
生誕 | 弘化3年10月9日(1846年11月27日) |
死没 | 明治4年12月3日[1](1872年1月12日) |
別名 | 通称:愛宕大夫[1] |
主君 | 孝明天皇→明治天皇 |
氏族 | 久我家→愛宕家 |
父母 | 父:久我建通、養父:愛宕通致 |
兄弟 | 久我通久、通旭、範姫、北畠通城、幸姫、野宮定美、東久世通暉 養兄弟:通則、通泰 |
妻 | 中院致子(中院通富の三女) |
愛宕 通旭(おたぎ みちてる)は、幕末の公家、明治初期の官僚。通称は愛宕大夫。
経歴
[編集]山城国京都で内大臣・久我建通の三男として生まれ、右近衛権中将・愛宕通致の養子となる[1][2]。安政6年9月(1859年)に元服し昇殿を許された[1][2]。慶応2年8月(1866年)朝廷刷新の二二卿建議(廷臣二十二卿列参事件)に養父と共に加わった[1]。
慶応4年2月10日(1868年3月3日)軍防事務局親兵掛となる[3]。以後、参与職親兵掛、神祇官権判事、同判事を歴任したが、明治2年5月20日(1869年6月29日)に官員減員により免官となる[3]。
その後、王政復古後の物価の騰貴、政府高官の洋風化などに反発し、外山光輔と提携して政権の刷新を画策し同志を募った[1][2]。同志の密告により明治4年3月14日(1871年5月3日)東京で捕縛された[2](二卿事件)。同年12月3日に自尽を命ぜられた[1][2]。
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 修史局編『百官履歴』 上巻、日本史籍協会、1928年。
- 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
- 霞会館『平成新修旧華族家系大成』 上巻、吉川弘文館、1996年。
- 安岡昭男編『幕末維新大人名事典』上巻、新人物往来社、2010年。
- 宮地正人・佐藤能丸・櫻井良樹編『明治時代史大辞典 第一巻』吉川弘文館、2011年。