敵の出方論
敵の出方論(てきのでかたろん)とは、1961年以降使われていた日本共産党の党内用語。
概要
[編集]日本共産党によれば「政権獲得後の権力保持にあたって、暴力的な反対行動を防止する」ことを指す理論であるとされる。一方日本国政府によれば「政権獲得前に政府の出方次第で暴力革命を起こす」ことを指す理論であるとされ「日本共産党は暴力革命を現在も放棄していない」としている。日本共産党は「党の正式な機関が、暴力革命や武装闘争を掲げた事は無い」と反論し、この用語を使わないことを2021年の中央委員会総会で決定したが、理論そのものが誤りだったとは認めておらず、日本国政府は共産党がこの用語の使用を止めたことによって政府の方針が変更されることはないとし[1]、公安調査庁は日本共産党を破壊活動防止法に基づく調査対象団体としている[2]。
歴史
[編集]「敵の出方」の起源
[編集]「革命が平和的に遂行されるか否かは反動派が不法な手段ないし暴力による弾圧に訴えてくるかどうかにかかっている」という考え自体は、日本共産党に限らず、マルクス主義、マルクス=レーニン主義(科学的社会主義)の諸潮流の運動原則として用いられてきた。
日本共産党議長を務めた不破哲三によると、マルクス・エンゲルスらはその著作において、ドイツ(社会主義者鎮圧法などに関して[3])やアメリカ(南北戦争に関して[4])の例を引き、反動勢力が暴力的に政権の樹立を阻止したり樹立された政権に対して反乱をした際にこれを打ち破る必要を説いており、不破はこれを「マルクスの『敵の出方』論」と読んでいる[5][6]。1890年代以来ドイツ社会民主党指導者であり、同党の「エルフルト綱領」起草者の一人であったカール・カウツキーは、反動派からの合法性の枠を超えた攻撃がない限りは、社会主義運動は平和的・体制内拡大戦術をとるべきであるとしていた[7]。戦間期のオーストリア・マルクス主義の理論家でオーストリア社会民主労働党(当時)の事実上の最高指導者であったオットー・バウアーは、敵の出方によっては暴力的な方法も辞さずとしながらも、議会制民主主義を通じた多数者革命を追究した[8]。ユーロ・コミュニズムの理論家でフランス共産党中央委員を務めたリュシアン・セーヴは、フランス共産党第22回大会報告の経験を理論化し、「敵がそれをいかに欲しようとも、暴力に頼ることがあってはならない」という平和革命の原則は、多数者獲得による革命の原則と弁証法的に結びついているとしている[9]。戦前の日本においても、1920年代後半に発行された『無産階級戦闘雑誌 進め』において、社会主義実現のために「不穏手段で行くか平和手段で行くか」は第一に支配階級の態度によって決定されるという記述が見られる[10]。
しかしながら、ロシアのボリシェヴィキの指導者ウラジーミル・レーニンはその著書『国家と革命』(1917年)などにおいて、1917年4月以降のロシアでの運動状況を一般化する形で暴力革命不可避論を展開し[11][12][13]、後にソビエト連邦の権力を掌握したヨシフ・スターリンが著書『レーニン主義の基礎について』(1924年)でこれをマルクス=レーニン主義の原則として定式化した。不破によれば、第二次世界大戦後には日本、ブラジル、インド、西ドイツなどの共産党が、スターリンの介入によって武装方針を取った[14]。
スターリンの死後、スターリン批判とその後の各地の政変、中ソ論争の高まりの中、1957年11月の社会主義国共産党・労働者党国際会議で採択された「モスクワ宣言」において、反動派が武力に訴えてこないかぎりは平和的な革命の条件があるとする平和革命方針が国際共産主義運動の原則として確認された[13][15]。
現在の条件のもとでは、一連の資本主義諸国で、前衛部隊にみちびかれる労働者階級は、労働者の統一戦線および人民戦線、その他のあらゆる形態のいろいろの政党や社会団体の協定や政治的協力にもとづいて、人民の大多数を統一し、内戦なしに国家権力をにぎり、基本的な生産手段を人民の手にうつすことのできる可能性をもっている。(中略) 搾取階級が人民にたいして暴力にうったえてくるばあいには、べつの可能性、すなわち、社会主義への非平和的移行の可能性をも考えにいれなければならない。レーニン主義が教えているように、また歴史の経験が証明しているように、支配階級は、みずからすすんで権力をゆずりわたすものではない。このような条件のもとでは、階級闘争のはげしさの程度とその形態は、プロレタリアートにかかっているのではなくて、むしろ人民の圧倒的多数の意思にたいする反動勢力の抵抗力、社会主義をめざすたたかいのあれこれの段階で反動勢力が暴力をつかうかどうかにかかるのである。 — モスクワ宣言[16](強調は引用者)
その後、1960年の81カ国共産党・労働者党代表者会議で採択された「モスクワ声明」は、革命の形態と発展方向は各国の階級の力関係、労働者階級の成熟・意識性、支配階級の抵抗の度合いに左右されると前置きしたうえで、「モスクワ宣言」の平和革命=敵の出方に関する部分を引用し再度確認されている[17][13]。
日本共産党の「敵の出方」論の確立
[編集]1946年以来日本共産党はいわゆる平和革命論(野坂理論)を主張したが、1950年にその方針をコミンフォルムが批判、これへの対応を巡る対立と公職追放による混乱により所感派(主流派、共産党用語では「徳田・野坂分派」)や国際派などに分裂した(50年問題)。この渦中の1951年に徳田を中心とする所感派=臨中指導部により「51年綱領」(「51年文書」)と「軍事方針」を採択、暴力革命不可避論による武装闘争路線(中核自衛隊、山村工作隊など)が行われた。徳田とスターリンの死後、1955年の「第6回全国協議会」と1957年の第15回拡大中央委員会において、徳田・野坂ら所感派=臨中指導部による党規に反したクーデターを検証した上で、「軍事方針」の誤りを認めこれを廃棄した。
「51年綱領」に代わる綱領討議過程の1958年に行われた第7回大会において、「暴力革命不可避論」と「平和革命必然論」の両方を退けた。その中で、先述のモスクワ宣言の「敵の出方論」を認めることが確認された。
革命が非流血的な方法で遂行されることはのぞましいことである。今日の憲法が一応政治社会生活を規制する法制上の基準とされている情勢では大衆闘争を基礎にして、国会を独占資本の支配の武器から人民の支配の武器に転嫁さすという可能性が生じている。しかし反動勢力が弾圧機関を武器として人民闘争の非流血的な前進を不可能にする措置に出た場合には、それにたいする闘争も避けることができないのは当然である。支配階級がその権力をやすやすと手放すものでは決してないということは、歴史の教訓の示すところである。
われわれは反動勢力が日本人民の多数の意志にさからって、無益な流血的な弾圧の道に出ないように、人民の力をつよめるべきであるが、同時に最後的には反革命勢力の出方によって決定される性質の問題であるということもつねに忘れるべきではない。 — 日本共産党第7回大会政治報告[18](強調は引用者)
1961年の第8回大会では「暴力革命不可避論」と「平和革命必然論」の両方を退けた新綱領路線が確立された。「敵の出方」論はこれ以降、党綱領それ自体に明記はされていないが、関連する報告では繰り返し触れられている[19][20]。第8回大会政治報告では、モスクワ宣言・モスクワ声明の非軍事路線・「敵の出方」論にあたる内容について再度確認されている[21]。1970年の第11回大会では、「敵の出方」論を再度詳細に記述している。
社会の変革をめざすさいにも、人民の多数の意思を尊重し、かつ人民にとってもっとも犠牲の少ない形態を望み、追究するのが、共産主義者の一貫した原則的態度である。わが党は、すでに、民族民主統一戦線勢力が国会で多数をしめて平和的、合法的に人民の政府をつくることをめざすことをあきらかにしている。しかし、そのさい内外の反動勢力がクーデターその他の不法な手段にあえて訴えた場合には、この政府が国民とともに秩序維持のための必要な措置を取ることは、国民主権と議会制民主主義をまもる当然の態度である。さらに人民の政府ができる以前に、反動勢力が民主主義を暴力的に破壊し、運動の発展に非平和的な障害を作り出す場合には、広範な民主勢力と民主的世論を結集してこのようなファッショ的攻撃を封殺することが当然の課題となる。わが党がこうした「敵の出方」を警戒するのは、反動勢力を政治的に包囲してあれこれの暴力的策動を未然に防止し、独立・民主日本の建設、さらには社会主義日本の建設への平和的な道を保障しようとするためであって、これをもって「暴力主義」の証拠とするのは、きわめて幼稚なこじつけである。 — 日本共産党第11回大会政治報告[22]
不破は、1970年5月22日付『赤旗』に掲載された「社会の変革と政治的民主主義をめぐる問題」(『人民的議会主義』所収)において、革命の移行が最終的には敵の出方にかかるという立場について、反動勢力が不法な暴力を行使する場合に生じる非平和的な局面の可能性を否定してしまうわけにはいかないとした上で、国民多数の意志で成立した政権に対するクーデターなどの不法行為に対して秩序維持のために必要な措置をとることは国民主権と議会制民主主義を守る当然の態度であるとしている[23]。
1989年2月28日に開かれた第114回国会・衆議院予算委員会では、当時衆議院議員だった不破が公安調査庁による日本共産党への調査について質問し、その中で石山陽公安調査庁長官は「政権確立した後に不穏分子が反乱的な行動に出て、これを鎮圧するというのは、たとえどなたの政権であろうとも当然に行われるべき治安維持活動」と「敵の出方」論の一部を肯定したうえで、不穏分子をたたきつけてやろうというという問題があるのではないかと見識を述べている[24][25]。
国会で以下の議論が行われた。
敵の出方による、こういうことを共産党が第七回の大会のときにうたったことがあります。(略)それに対してあくまでもこれは暴力革命をやるのだ、こういうようなことをあくまでもあなた方は一つの金科玉条として言っているが、われわれはそんなばかげた解釈はしておりません。
われわれは第一に平和憲法をあくまでも守るのだということを党の最も重要な政策の一つとして掲げている。たとえば、山口二矢があのような暴力をやった(略)、自衛隊のクーデター(略)これに対してあくまでも日本の平和と安全を守る、そういう立場からそれに抵抗する権利というものは、人民の権利です。(略)
長官の判断などと言うけれども(略)暴力をやる党だというようなレッテルを張って、そうしてこれを容疑団体として調査の対象にする。 — 岩間正男(日本共産党)、1962年10月31日 第41回国会 参議院 法務委員会[26]
共産党が暴力革命を企図されるという意味で、これは幾つかの判例でございますけれども、昭和26年7年(1951~1952年)にいわば軍事活動から革命に持っていくという活動をされたわけでございます。
そのときから綱領は変わっておりまするけれども、要するに、暴力革命になるのか平和的に移行するのかは、やはり敵の出方による、いわば警察側の出方によると申しますか、もっと広いのかもしれませんが、そういうお考えは終始一貫持っていらっしゃるわけでございます。(略)
今の秩序を暴力によってくつがえすというお考えがかりにあるならば、そういうことについて警察として関心を持って見るということは、これは私は警察の任務として当然のことであると思うのでございます。 — 三輪良雄(政府委員)、1963年6月6日 第43回国会 参議院 法務委員会[26]
なお日本共産党は、「平和革命必然論」と「武力革命唯一論」の両方を誤りとして批判する。
現行の綱領では、民族民主統一戦線の政府がどういう過程で樹立され、またどういう過程をへて革命の政府あるいは革命の権力になるかなどについての叙述がくわしい。ここには、平和革命必然論や武力革命唯一論など、さまざまな誤った主張を批判して、綱領路線を確立した論戦の経過も反映している。 — 『日本共産党綱領一部改定についての提案』(1994年5月、 日本共産党)[28]
元日本共産党員で1994年に離党した政治学者の田口富久治は、1998年に発表した文章において、敵の出方論は放棄されている旨記している[29]。
「敵の出方」という用語の廃棄
[編集]2021年8月に開かれた党創立99周年記念講演において、日本共産党は2004年の綱領改定以後、あたかも平和的方針と非平和的方針を持っていると曲解されるという理由で「敵の出方」という表現を使わなくなっていることを明らかにしたうえで、志位は「敵の出方」論を曲解した攻撃を批判した[30]。同年9月に開かれた党28回大会第3回中央委員会総会では、再び公式に「敵の出方」という表現を使用しないことが確認された[31]。
論争
[編集]日本国政府側の主張
[編集]日本の警察における警備・公安警察教育においては、1980年代以来「日本共産党は平和路線を見せているがそれは欺瞞である」「敵の出方論によって暴力革命を固持し、決してあきらめていない」と規定・定式化されている[20]。警察大学校の校長を務めた弘津恭輔は、敵の出方論があえて綱領に書かれていないのは破防法対策であり、暴力革命方針が日本共産党の本質であると主張している[20]。
公安調査庁は以下見解により、1952年より日本共産党を破壊活動防止法に基づく調査対象団体としている。
共産党は、第5回全国協議会(昭和26年〈1951年〉)で採択した「51年綱領」と「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」とする「軍事方針」に基づいて武装闘争の戦術を採用し、各地で殺人事件や騒擾(騒乱)事件などを引き起こしました。
その後、共産党は、武装闘争を唯一とする戦術を自己批判しましたが、革命の形態が平和的になるか非平和的になるかは敵の出方によるとする「いわゆる敵の出方論」を採用し、暴力革命の可能性を否定することなく、現在に至っています。
こうしたことに鑑み、当庁は、共産党を破壊活動防止法に基づく調査対象団体としています。 — 共産党が破防法に基づく調査対象団体であるとする当庁見解、公安調査庁[2]
公安調査庁は論拠の一つとして上記の不破哲三著『日本社会党の綱領的路線の問題点』が「平和革命必然論」と「武力革命唯一論」の両方を誤りとしている点もあげている[2]。
また警察庁も以下見解により、日本共産党は「敵の出方論」により、暴力革命の方針は変更が無いとしている。
(1955年の第7回党大会、1961年の第8回党大会の)両党大会や綱領論争の過程における党中央を代表して行われた様々な報告の中で、革命が「平和的となるか非平和的となるかは結局敵の出方による」とするいわゆる「敵の出方」論による暴力革命の方針が示されました。(略)
(2004年の第23回党大会での綱領改定にて)マルクス・レーニン主義特有の用語や国民が警戒心を抱きそうな表現を削除、変更するなど、「革命」色を薄めソフトイメージを強調したものとなりました。しかし、二段階革命論、統一戦線戦術といった現綱領の基本路線に変更はなく、不破議長も、改定案提案時、「綱領の基本路線は、42年間の政治的実践によって試されずみ」として、路線の正しさを強調しました。
このことは、現綱領が討議され採択された第7回党大会から第8回党大会までの間に、党中央を代表して報告された「敵の出方」論に立つ同党の革命方針に変更がないことを示すものであり、警察としては、引き続き日本共産党の動向に重大な関心を払っています。 — 警備警察50年(平成16年、警察庁)[32]
2016年(平成28年)3月に安倍晋三内閣は、「日本共産党は破壊活動防止法の調査対象である」と、質問主意書の答弁書を閣議決定した[33]。また2020年(令和2年)2月13日、内閣総理大臣安倍晋三は衆議院本会議で、日本維新の会の衆議院議員足立康史の質疑に対して「日本共産党は現在においても、暴力革命の方針に変更がないものと認識している」と答弁した[34]。
2021年(令和3年)9月14日、菅義偉内閣の内閣官房長官加藤勝信は「日本共産党の、いわゆる敵の出方論に立った暴力革命の方針に変更はないものと認識している」と記者会見で述べた[35]。9月17日の記者会見でも加藤は「政府としては変更はないと認識をしている」と重ねて強調し、その根拠について「公安当局が共産党の各種文献を調査するなどして総合的に判断した」としている。法務大臣上川陽子も同日の会見で同様の見解を示した[36]。
2021年11月19日、岸田文雄内閣は「いわゆる『敵の出方論』に立った暴力革命の方針に変更はないものと認識している」とするNHKと裁判してる党弁護士法72条違反での参議院議員浜田聡の質問主意書に対する答弁書を閣議決定した[37]。
日本共産党の主張
[編集]日本共産党中央委員会委員長の志位和夫は「敵の出方」論の内容について次のように説明している。
(1)選挙で多数の支持を得て誕生した民主的政権に対して、反動勢力があれこれの不法な暴挙に出たさいには、国民とともに秩序維持のために必要な合法的措置をとる。(2)民主的政権ができる以前に反動勢力が民主主義を暴力的に破壊しようとした場合には、広範な国民世論を結集してこれを許さないというものです。 — 「パンデミックと日本共産党の真価」[38]
2016年3月に政府による政府答弁書の閣議決定に対して、日本共産党は機関紙「しんぶん赤旗」で以下主張を行った。
日本共産党が、かつての一連の決定で「敵の出方」を警戒する必要性を強調していたのは、反動勢力を政治的に包囲して、あれこれの暴力的策動を未然に防止し、社会進歩の事業を平和的な道で進めるためであって、これをもって「暴力革命」の根拠とするのは、あまりに幼稚なこじつけであり、成り立つものではありません。(略) 「議会の多数を得て社会変革を進める」――これが日本共産党の一貫した方針であり、「暴力革命」など縁もゆかりもないことは、わが党の綱領や方針をまじめに読めばあまりに明瞭なことです。 (略)政府答弁書では、日本共産党が「暴力主義的破壊活動を行った疑いがある」と述べています。1950年から55年にかけて、徳田球一、野坂参三らによって日本共産党中央委員会が解体され党が分裂した時代に、中国に亡命した徳田・野坂派が、旧ソ連や中国の言いなりになって外国仕込みの武装闘争路線を日本に持ち込んだことがあります。しかし、それは党が分裂した時期の一方の側の行動であって、1958年の第7回党大会で党が統一を回復したさいに明確に批判され、きっぱり否定された問題です。(略)日本共産党は、戦前も戦後も党の正規の方針として「暴力革命の方針」をとったことは一度もありません。歴史の事実を歪曲した攻撃は成り立ちません。(略)今回の政府答弁書は、このような使い古しのデマをもとに、今もなお日本共産党を「破壊活動防止法に基づく調査対象団体」だとしています。(略)天下の公党である日本共産党に対して、「暴力革命」という悪質なデマにもとづいて、不当な監視、スパイ活動を行うことは、憲法の保障する結社の自由にたいする重大な侵害であり、ただちにやめるべきです。 — 『政府の「暴力革命」答弁書は悪質なデマ』(2016年3月24日)日本共産党)[39]
また2020年2月13日、衆議院での安倍晋三首相の発言に対して、機関紙「しんぶん赤旗」で以下主張を行った。
日本共産党が、かつて一連の決定で、「敵の出方」を警戒する必要性を強調していたのは、「共産党が入る政権ができたら自衛隊は従う義務なし」などということを防衛庁の幹部が述べるなどのもとで、国民世論を結集して反動勢力を政治的に包囲してその暴力的策動を未然に防止し、社会変革の平和的な道を保障しようとするためのものであって、これをもって「暴力革命」の「証拠」にするなど、まったく成り立たない話です。(略)
また、不破氏の質問で、石山長官は公安調査庁発足以来36年、共産党を調査しても「破壊活動の証拠」を何一つ見つけられなかったことを認めました。それから31年たっています。
すなわち、67年にわたって不当な調査を公党に対して行いながら、「破壊活動の証拠」なるものを何一つ発見できなかった。(略)「暴力革命」などというのはわが党綱領のどこをどう読んでも、影も形もない、わが党とはまったく無縁な方針だということを重ねて表明しておきたいと思います。 — 『議会で多数を得ての平和的変革こそ日本共産党の一貫した立場 安倍首相の衆院本会議でのデマ攻撃に断固抗議する』(2020年2月) 日本共産党[40]
さらに、2021年8月4日に行われた「日本共産党創立99周年記念講演会」で、志位和夫は次のように述べ、「敵の出方論」という用語を使用しないことを明らかにした。
なお、「敵の出方」という表現だけをとらえて、日本共産党が、あたかも平和的方針と非平和的方針という二つの方針をもっていて、相手の出方によっては非平和的方針をとるかのような、ねじ曲げた悪宣伝に使われるということで、この表現は、2004年の綱領改定後は使わないことにしています。
民主的政権を樹立する過程でも、樹立したのちも、一貫して平和的・合法的に社会変革を進めるというのが、日本共産党の確固たる立場であります。[41]
これに対して官房長官加藤勝信は記者会見で「志位氏の発言によって政府の認識は何ら変更するものではない」と述べた[1]。
脚注
[編集]- ^ a b 「「共産党の暴力革命方針変更なし」 加藤長官が見解」『産経新聞』2021年9月14日。2023年12月2日閲覧。
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- ^ 「加藤官房長官「政府認識に変更ない」 共産「敵の出方論」不使用巡り」『毎日新聞』2021年9月14日。2021年9月15日閲覧。
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参考文献
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