早川三代治
早川 三代治(はやかわ みよじ、1895年(明治28年)6月22日 - 1962年(昭和37年)8月28日)は、日本の経済学者、小説家。正五位。
略歴
[編集]北海道小樽市生まれ。北海道帝国大学卒業後、経済学を学ぶためにドイツに留学し、ウィーンでヨーゼフ・シュンペーターに面会し、指導を受ける。帰国後、レオン・ワルラスやヴィルフレド・パレートを日本に紹介し、北海道を中心に所得調査を行い、日本の所得分布でパレートの法則を検証した論文を発表した。また、北海道帝国大学、小樽経済専門学校・小樽商科大学、早稲田大学で教鞭を取り、早稲田大学で経済学博士の学位を取得している。
一方で、東北帝国大学農科大学予科在学時に有島武郎の教えを受け、文学に傾倒し、その後島崎藤村に師事し、多くの小説・戯曲・随筆を創作した。代表作に道東の開拓地を舞台とした長編小説「土と人」(五部作)がある。
弟に『アイヌの民俗(民俗民芸双書)』を著した民俗学者の早川昇がいる。早大時代の教え子にニュースキャスターの筑紫哲也がいる。
- 1895年(明治28年) 小樽区入船町(現・小樽市)にて、父・岩三郎、母・志満の長男として生まれる。生家の早川家は、丸越早川商店と称して、家内業・商取引に携わっていた商家であった。
- 1908年(明治41年)庁立小樽中学校(現・北海道小樽潮陵高等学校)入学。
- 1914年(大正3年) 東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)予科に入学し、英語の試験官・担当教授であった有島武郎に傾倒し、札幌の有島宅をしばしば訪問。同大学の『文部会会報』に「朝千吉」などの筆名で創作の発表を始める。
- 1915年(大正4年) 友人の高田紅果、出口豊泰らがこの年に創刊した文芸雑誌『白夜』に「朝千吉」の筆名で寄稿。
- 1918年(大正7年) 東北帝国大学農科大学予科卒業、北海道帝国大学農学部農学科第一部入学。
- 1919年(大正8年) 高田紅果、出口豊泰らとともに文化団体「小樽啓明会」を結成し、小樽高等商業学校教授の大西猪之介を講師に迎え、第一回講演会を開催。
- 1921年(大正10年) 卒業論文「収穫逓減法則に就て」を提出し、北海道帝国大学を卒業。純理論経済学を深く学ぶためドイツに留学。高岡熊雄と大西猪之介の紹介状を携え、ボン大学哲学科に入学し、ディーツェル、シュピートホフ、ヴェンツェルの3教授に師事。留学中も小樽の文学仲間の高田紅果、本間勇児、出口豊泰、友人の漁夫画家の木田金次郎らと文通を続ける。
- 1922年(大正12年) ベルリン大学法文哲学科に入学し、経済学を専攻。7月頃に有島武郎の死を知る。8-9月にドイツ在住の内科学者の酒井繁、応用化学者の中本実とともに北欧を旅行。
- 1923年(大正13年) 昆虫学者の小熊捍とローマを中心にヨーロッパを旅行。6月にウィーンでビーダーマン銀行の頭取となっていた経済学者シュンペーターに面会し、指導を仰ぐ[2]。
- 1924年(大正14年) 日本に帰国し、北海道帝国大学農学部講師に就任(農業経済学科教室勤務)。
- 1927年(昭和2年) 島崎藤村に短編・戯曲を送り、知遇を得る。
- 1930年(昭和5年) 最初の経済学研究書として、『純理経済学序論』を刊行。
- 1931年(昭和6年) シュンペーター教授が来日し、東京での3回の講演を聴講したほか、神戸商科大学での講演・討論に参加。山本たけと結婚。
- 1932年(昭和7年) 不況下の旭川での調査を端緒として、所得分布に関する実証的研究に向かう。戯曲「新しき縄」を『劇と評論』に発表。
- 1933年(昭和8年) 北海道全市町村に対し個人所得データに係る独自のアンケート調査を開始。道東の虹別(現・標茶町虹別)を訪れ、過酷な開拓地の実態に触れ、人間と土地の格闘の歴史を長編(後の「土と人」シリーズ)として著すことを構想。「新しき縄」が新劇座第9回講演として帝国ホテル演芸場にて上演、主演は花柳章太郎。
- 1934年(昭和9年)北海道帝国大学助教授に昇進し、経済学財政学講座を担当。『北大文芸』に長編「鶴の生息地」(後の「土と人」シリーズ第2部「処女地」)を連載開始。
- 1936年(昭和11年) 前年に弟と母が相次いで入院し、北海道帝国大学を辞職し、家業を継ぐも、学会活動と文芸創作は継続。
- 1939年(昭和14年) 島崎藤村を訪問し、中島健蔵を紹介される。
- 1942年(昭和17年) 「土と人」シリーズの初刊本として、第2部『処女地』刊行。
- 1944年(昭和19年) 「土と人」シリーズ第3部『土から生まれるもの』、第4部『生ける地』刊行。
- 1945年(昭和20年) 「土と人」シリーズ第1部『根』刊行、第5部「地飢ゆ」を追加決定。
- 1948年(昭和23年) 小樽経済専門学校教授に就任し、同校附属図書館長にも就任[3]。
- 1949年(昭和24年) 新制大学昇格に伴い、小樽商科大学教授となり、経済原論・経済学史を担当。新生新派一座の花柳章太郎らと会い、「新しき縄」再上演の希望を聞く。
- 1950年(昭和25年) イギリスの詩人エドマンド・ブランデンに詩集『エムブリオ』英訳文を送り、批評私信を受け取る。「土と人」シリーズの第6部「蘖(ひこばえ)」を構想。
- 1951年(昭和26年) 日本の所得分布でパレート法則を検証した英語論文が、権威ある経済学の学術雑誌であるエコノメトリカ誌に掲載(同誌には日本人としては初)。北海道経済学会創設に尽力し、初代代表理事に就任[4][5]。
- 1952年(昭和27年) 新生新派一座による「新しき縄」が大阪朝日開局一周年記念として放送。
- 1953年(昭和28年) 北海道から北海道道民所得調査委員会委員を委嘱(1957年12月まで)。
- 1956年(昭和31年) 早稲田大学の久保田明光教授と懇談し、東京に出ることを考え始める。小樽での日本統計学会の開催に尽力。
- 1957年(昭和32年) 小樽商科大学を辞し、東京に移住し、早稲田大学教育学部教授に就任。
- 1958年(昭和33年) 有島武郎を題材とした長編小説「或る地主」を構想。ニセコの有島農場解放記念館跡地を訪問し、木田金次郎に有島農場事務所の間取り等を書簡で問い合わせる。
- 1959年(昭和34年) 「新しき縄」がラジオ東京のラジオドラマでオンエア。その後、全国放送。
- 1960年(昭和35年) 「パレート法則による所得と財産分布に関する研究」により早稲田大学の経済学博士の学位取得。
- 1961年(昭和36年) 「土と人」シリーズの第5部と第6部の構成を検討し、第1部を再推敲。
- 1962年(昭和37年) 「土と人」シリーズの第2部と第5部を再推敲し、ほぼ完了。小樽にて死去。当初、従五位が贈られたが[6]、改めて正五位が贈られた。
著作・作品
[編集]単著(経済学)
[編集]翻訳(経済学)
[編集]主要論文(経済学)
[編集]- 「經濟學者としての大西教授 : 追憶」『商學討究』第7巻第1号、小樽高等商業學校研究室、1932年6月、85-97頁。
- 「クールノーの國際貿易理論に對するパレートの批評」『法經會論叢』第2号、北海道帝國大學法經會、1934年1月、57-74頁。
- 「旭川市に於ける所得分布」『法經會論叢』第3号、北海道帝國大學法經會、1934年11月、45-55頁。
- 「パレートのオフェリミテと無差別線」『日本經濟學會年報』第1号、日本經濟學會、1941年11月、63-90頁。
- 「所得のパレート線について」『日本經濟學會年報』第2号、日本經濟學會、1942年11月、213-223頁。
- 「<研究> 經濟社會學と經濟學」『社会経済研究』第8-9号、小樽經濟専門學校經濟研究所、1948年8月、1-10頁。
- 「財産の分布に關する一考察」『小樽商科大學開學記念論文集』第2号、栗田源助、1950年3月、89-136頁。
- 「質銀の分布に関するノート Notes on the Distribution of wages」『商學討究』第1巻第1号、小樽商科大学、1950年11月、1-31頁。
- 「CharlierのB型頻度曲線による所得分布」『季刊 理論経済学』第2巻第3号、日本経済学会、1951年、129-135頁。
- 「所得ピラミッドの端初的形態 The Primitive Form of the Theory Investment」『商學討究』第2巻第1号、小樽商科大学、1951年7月、39-48頁。
- “The Application of Pareto's Law of Income to Japanese Data”. Econometrica (The Econometric Society) 19 (2): 174-183. (1951). doi:10.2307/1905732. JSTOR 1905732.
- 「北海道における所得分布に関するパレートのα,ヂニのδ並にローレンツのλ Pareto's α,Gini's δ and Lorenz's λ of the Income-distribution in Hokkaido」『商學討究』第2巻第4号、小樽商科大学、1952年3月、1-31頁。
- 「<論説>札幌市における所得分布 <Articles>The Distribution of Income in Sapporo City」『商學討究』第3巻第2号、小樽商科大学、1952年9月、93-139頁。
- 「<論説>東北六県に於ける所得分布 <Article>The Income-Distribution in Six North-Eastern Prefectures of Japan」『商學討究』第4巻第2号、小樽商科大学、1953年9月、143-162頁。
- 「<論説>北海道における所得分布の地域差 <Article>Regional Difference in the Distribution of Incomes in Hokkaido」『商學討究』第5巻第2号、小樽商科大学、1954年10月、1-13頁。
- 「<論説>東京都並にその隣接諸県における所得分布(その一) <Article>Distribution of Income in Tokyo and Its Neighbouring Prefectures」『商學討究』第6巻第2号、小樽商科大学、1955年9月、55-67頁。
- 「<論説>東京都並にその隣接諸県における所得分布(そのニ) <Articles>Distribution of Income in Tokyo and Its Neighbouring Prefectures(II)」『商學討究』第6巻第4号、小樽商科大学、1956年3月、1-11頁。
- 「ヴィルフレド・パレート『経済学提要』」『経済セミナー』第12号、日本評論社、1958年2月、46-49頁。
- 「ローザンヌ学派(1)」『経済セミナー』第18号、日本評論社、1958年6月、9-12頁。
- 「ローザンヌ学派(2)」『経済セミナー』第19号、日本評論社、1958年7月、5-8頁。
- 「ローザンヌ学派(3)」『経済セミナー』第20号、日本評論社、1958年8月、5-8頁。
- 「経済均衡論の創始者ワルラス」『経済往来』第12巻第9号、日本評論社、1960年9月。
小説
[編集]- 『青鷸 短篇小説集』(明窓社, 1933)
- 『ル・シラアヂユ(船あと)』(明窓社, 1934)
- 『処女地 土と人 第2部』(元元書房, 1942.12)
- 『土から生まれるもの 土と人 第3部』(元元書房, 1944)
- 『生ける地 土と人 第4部』(宝文館, 1944.8)
- 『根 土と人 第1部』(寶文館, 1945.2)
- 『若い地主』(青年論壇社, 1947)
- 『地飢ゆ 土と人 第5部』(中央公論事業出版, 2012)
戯曲
[編集]- 『聖女の肉体(戯曲集1)』(明窓社, 1932)
- 『トレ グラチエ(戯曲集2)』(私家版, 1936)
- 『マダム レア(戯曲集3)』(私家版, 1937)
詩集
[編集]- 『エムブリオ(胚珠)詩集』(私家版, 1936)
随筆
[編集]- 『ラインのほとり』(明窓社, 1933)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 小樽商科大学附属図書館編『早川文庫目録:故早川三代治教授旧蔵人文・社会科学文庫』小樽商科大学附属図書館、1976年。
- 上久保敏著『日本の経済学を築いた五十人 : ノン・マルクス経済学者の足跡』日本評論社、2003年、86-90頁。ISBN 4535553645。
- 亀井志乃著『<緑人社>の青春 : 早川三代治宛の木田金次郎・高田紅果書簡で綴る大正期芸術運動の軌跡』小樽文學舎、2011年。
- 木戸清平著『知られざる文学 : 近代日本文学ノート』川又書店、1960年。
- 金城ふみ子「経済学者早川三代治の長編小説<土と人>の執筆意図, 構成, 出版の経緯 : 作品分析の背景考察の試み」『東京国際大学論叢 経済学部編』第51号、東京国際大学、2014年、43-68頁。
- 金城ふみ子「経済学者・早川三代治が小説『処女地』で描いた北海道虹別開拓村民の生活 : 世界恐慌の年に始まった凶作続きの村の「敗者」の物語」『東京国際大学論叢 人文・社会学研究』第1号、東京国際大学、2016年3月、1-37頁。
- 金城ふみ子「経済学者早川三代治の自伝的小説 『若い地主』・「農地解放」に見られる悩みと打算 : 札幌農学校につながる二人の文人:師有島武郎と弟子の早川三代治」『有島武郎研究』第19号、有島研究会、2016年5月、63-76頁。
- 市立小樽文学館編『小樽高商・商大ゆかりの文人経済学者たち : 大熊信行・早川三代治・大西猪之介』市立小樽文学館、2011年。
- 市立小樽文学館編『早川三代治展 : インターナショナルな知的表現者』市立小樽文学館、2016年12月 。
- 寺崎康博「戦前期の所得分布の変動:展望」『長崎大学教養部紀要 人文科学篇』第26巻第2号、長崎大学教養学部、1986年3月、25-42頁。
- 北海道文学館編『北海道文学百景』共同文化社、1987年。
- 北海道大学百二十五年史編集室編集『北大百二十五年史 論文・資料編』北海道大学、1993年、241-264頁。
- 北海道大学放送教育委員会編『北海道文学の系譜』北海道大学出版会、1984年。