明智光綱
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 明応6年8月17日(1497年9月13日) |
死没 | 天文4年8月5日(1535年9月12日) |
別名 | 光国、光圀、光隆 |
主君 | 斎藤道三 |
氏族 | 明智氏 |
父母 | 明智光継(頼典) |
兄弟 | 光綱、山岸光信、光安、光久、原光広、 光廉、小見の方 |
妻 | お牧の方(武田信豊娘、一説に進士信連娘) |
子 | 光秀[異説あり]、信教[異説あり] 、康秀[異説あり]、進士晴舎[1][異説あり] 、御ツマキ[異説あり] |
明智 光綱(あけち みつつな)は、戦国時代の武将。土岐氏の庶流・明智氏。明智光継(頼典)の子。明智光秀、明智信教、明智康秀らの父と伝わる。
生涯
[編集]明智氏は美濃国・土岐氏の支流。東美濃を本拠とする。初め、父と共に斎藤道三に仕え、のち道三に居城の美濃明智城を攻められ討死したといわれるが(『細川家記』)、真偽は不明[2]。『明智軍記』などによると、光綱について明智光秀の父との記述が見られる。光綱死去の折に光秀はまだ若年で、その成人まで明智光安が明智城主として後見したという。
『明智氏一族宮城家相伝系図書』では、本名は「光隆」とされる。光綱(『系図纂要』)、光国(『続群書類従本』)と諸系図で名前すら一致せず、光秀を土岐氏の末流に連ねることを疑問視する見解もある[2]。また、小林正信は、光秀の父とされる人物を史料上から見出すことはできない、と述べている[3]。 その光秀の誕生時期にも諸説があり、光綱が光秀の父であったのか、現在でも確たる立証はされていない。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 小林正信『明智光秀の乱 ―天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊』(新装改訂増補版)里文出版、2019年。