曹彪

曹彪

楚王
出生 興平2年(195年
豫州沛国譙県
死去 嘉平3年(251年
拼音 cáo biāo
朱虎
主君 曹操曹丕曹叡曹芳
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曹 彪(そう ひょう)は、中国三国時代の皇族。朱虎豫州沛国譙県(現:安徽省亳州市譙城区)の人[1]。父は曹操。母は孫姫。同母兄は曹上。同母弟は曹勤。子は曹嘉

太尉王淩が、曹彪を皇帝に擁立するクーデターを画策していたが、これが露見したため死を賜った(王淩の乱)。

生涯

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建安21年(216年)に寿春侯、黄初2年(221年)に汝陽公、黄初3年(222年)に弋陽王、のち同年中に呉王に封じられる。

黄初4年(223年)、節気[2]のため兄弟と共に来朝するが、その矢先に異母兄の曹彰が死去。曹彪と異母兄の曹植は帰路を共にしようとしたが、監国使者(諸王を監視する役人)に妨害され、互いに別の道を通って帰国した。この処分に憤激した曹植から詩(「白馬王彪に贈る」)を贈られている[3]

黄初5年(224年)に寿春王、黄初7年(226年)に白馬王に転封される。文学を好む曹彪はこの頃、白馬国相で学者の賈洪を師と仰ぎ、その礼遇ぶりは大臣にも勝るほどだった[4]

太和6年(232年)、楚王に転封される。青龍元年(233年)、2年前の来朝時に禁令を犯したことを咎められ、所轄の役人の上奏により3県1500戸の領地を削られた。青龍2年(234年)、大赦を得て領地を回復。景初3年(239年)、500戸を加増され、領邑3000戸となった。

王淩と甥の令狐愚は、時の皇帝曹芳では帝位を担い切れないと考え、年長で才覚のある曹彪の擁立を画策していた。嘉平元年(249年)、令狐愚から派遣された使者に対して曹彪は「厚意は分かった」などと答えている。令狐愚は同年中に病死するが、嘉平3年(251年)、王淩は将軍楊弘を兗州刺史黄華の元へ派遣し、皇帝廃立の計画を告げる。黄華と楊弘は連名でこれを司馬懿に密告。王淩は逮捕された後に自殺した。さらに令狐愚から曹彪の下に派遣されていた張式らが自首し、王淩らの計画が全て明るみに出たことで、曹彪も死を賜った[5]。享年57[6]。妻子は処刑を免れたが平民に落とされ、また配下の属官及び監国謁者は、事情を知りながら補導の義に反したかどで、ことごとく誅殺された。

子の曹嘉は正元元年(254年)の詔勅により罪を許され、皇族に復帰、常山真定王に封じられた。さらに景元元年(260年)に加増を受け、併せて2500戸を領した。魏の滅亡後は西晋に仕え、高邑公に転じた。

白馬王彪に贈る

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  • 異母兄の曹植が曹彪に贈った詩。
(序)
…黄初四年夏五月、白馬王(曹彪)・任城王(曹彰)
余と具(とも)に京師(洛陽)に朝し、節気に会す。
洛陽に到りて、任城王薨ず。秋七月に至り
白馬王と与(とも)に国に還らんとす。後に有司(やくにん)
二王の藩に帰るに、道路宜しく宿止を異にすべきことを以てす。
意(こころ)は毒(はなはだ)しく之(これ)を恨めり
蓋(けだし)大別(永遠の別れ)は数日に在るを以てなり。
是を用(もっ)て自ら剖(さ=裂)き、王と辞し
憤りて篇(へん)を成せり…
(其の七)
苦心して何かを慮思する
天命、信(まこと)に疑う可し
虚無、列仙を求む
松子(しょうし=仙人)久しく吾を欺きぬ
変故(受難)斯須(ししゅ=瞬間)に在り
離別すれば永く会う無し
手を執るは、将(は)た何れの時ぞ
王、其れ玉体を愛せよ
具(とも)に黄髪(長寿)の期を享けん
涙を収めて長路に即き
筆を授(と)りて、此れ従(よ)り辞す

出典

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脚注

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  1. ^ 『三国志』魏書 武帝紀記載、父の曹操の本籍地。
  2. ^ 季節ごとの朝廷の会合[1]
  3. ^ 『三国志』魏書 陳思王植伝注『魏氏春秋』、及び「白馬王彪に贈る」序より。楚王彪伝では白馬王転封を黄初7年とするが、「白馬王彪に贈る」と時代が前後することから、この記述を誤りとする見解もある(黄節『曹子建詩注』、趙幼文『曹植集校注』)。一方『三国志集解』の盧弼は、詩題及び序文を後人の付加と見なす。
  4. ^ 『三国志』魏書 王朗伝注『魏略』。ただし賈洪は「延康中、転為白馬王相」とされるが、『三国志集解』は「延康中不得称白馬王相」とする。
  5. ^ 『三国志』魏書 王淩伝及び注に引く『魏略』
  6. ^ 『三国志』魏書 朱建平伝より。人相見で知られる朱建平は、齢57で曹彪が兵禍に遭うことを予言、警告していたという。