本野盛亨
本野 盛亨(もとの もりみち、1836年9月25日(天保7年8月15日) - 1909年(明治42年)12月10日)は、日本の官僚、実業家、読売新聞創業者の一人。通称周蔵、周造[1][2]。旧姓は八田[2]。
来歴・人物
[編集]肥前国佐賀藩の久保田村(後の佐賀市)に八田晋の子として生まれた。後に、本野権太夫の婿養子となる。佐賀有田で谷口藍田に師事し、藍田塾の仲間の縁で大阪へ出て、緒方洪庵の適塾で蘭学を修めた。長崎の致遠館では、フルベッキに英語等を学んでいる[2]。
- 1868年(明治元年) 神奈川県大参事(裁判所)に就任。
- 1870年(明治3年) 日本最初の活版印刷社「日就社」を、横浜で子安峻、柴田昌吉とともに創立。
- 1872年(明治5年) 駐英公使館1等書記官として渡英。帰国後は大蔵省に勤務し横浜税関長。
- 1874年(明治7年) 日就社の3名で読売新聞社を創業。
- 1882年(明治15年) 大阪控訴裁判所検事(明治20年まで)
- 1889年(明治22年) 子安に続く2代目読売新聞社社長に就任。
親族
[編集]父の八田晋は佐賀藩士。妻總子の父親・本野権太夫も佐賀藩藩士[2]。長女富士子は侍医も務めた岩佐新の妻[3]。長男に外務大臣となる本野一郎、次男に4代目読売新聞社社長となる本野英吉郎、3男に京都帝国大学教授の本野亨、4男に建築家で京都工芸繊維大学教授を務めた本野精吾がいる。第3代読売新聞社社長の高柳豊三郎は甥。
脚注
[編集]
|
|
|