李忠 (漢)
李 忠(り ちゅう、? - 43年)は、後漢の武将。字は仲都(ちゅうと)。東萊郡黄県(山東省竜口市)の人(『後漢書』列伝11・本伝)[1]。光武帝の功臣であり、雲台二十八将の第25位に序せられる(『後漢書』列伝12)。
事跡
[編集]姓名 | 李忠 |
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時代 | 前漢時代 - 後漢時代 |
生没年 | 生年不詳 - 43年(建武19年) |
字・別号 | 仲都(字) |
本貫・出身地等 | 青州東萊郡黄県 |
職官 | 高密国郎〔前漢〕 →新博属長(信都都尉)〔新→更始〕 |
爵位・号等 | 武固侯〔劉秀(後漢)〕→中水侯〔後漢〕 |
陣営・所属等 | 平帝→孺子嬰→王莽 |
家族・一族 | 子:李威 |
元始年間(1年 - 5年)に高密国の郎となる。王莽の世に新博の属長(新制。漢制の信都郡の尉に同じ)となる。
更始元年(23年)、劉玄が更始帝を称すると、李忠を信都郡の都尉に任命した。
更始2年(24年)、薊県から逃れてきた劉秀を信都太守の任光・県令の萬脩らとともに迎え入れた。右大将軍を拝命し武固侯に封じられ、鉅鹿の王郎軍に対する包囲戦に参加した。この頃、信都が王郎の勢力下に入り、李忠は更始帝軍と共に信都に向い、太守を代行する。劉秀が信都郡を奪還し、任光が太守に復帰すると李忠も都尉に戻った。
建武2年(26年)、代わって中水侯に封じられる。五官中郎将に任命され、山東の軍閥の龐萌や董憲らを平定した[2]。
建武6年(30年)、丹陽太守に移る。長江・淮水流域の沿海部に土着する勢力を討ち、住民の教化・戸籍登録に務めた。墾田は拡大し、戸籍に登載された流民は3年間で5万余口にのぼった。
建武14年(38年)、三公が李忠の治績は天下第一である旨上奏した。その後に豫章太守に移る。病により引退し、洛陽に召される。
建武19年(43年)、逝去した。
人柄・逸話
[編集]- 河北攻略の途上、劉秀が諸将に略奪した財物について問うたところ、李忠だけが略奪をしていなかった。劉秀は自らの馬と衣服を李忠にのみ与えた。
- 信都の豪族の馬寵が王郎軍と内応し、李忠の母・妻を捕えて李忠に寝返りをそそのかしたことがあった。馬寵の弟は李忠の校尉であったが、李忠は内応に関わったとして馬寵の弟を殺した。劉秀はその忠義心に感じ入り、家族の救出に向かうため軍を離れてよいと言い渡した。李忠は「私は殿の大恩を受け、殿に命を捧げる所存です。身内の事などは顧みません」と答えた。劉秀は任光の軍を信都に遣わしたが、兵士たちが途中で散って王郎に降り、功なく戻った。たまたま劉玄軍の部将が信都の王郎軍を攻め、李忠の家族は救われた。劉秀は李忠を信都太守代行として帰し、李忠は信都の豪族で王郎軍に内応した者数百人を殺した。