松井卓治
松井卓治 まつい たくじ | |
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生年月日 | 1888年6月6日 |
出生地 | 日本 長野県下伊那郡飯田町 (現長野県飯田市) |
没年月日 | 1978年 |
出身校 | 旧制千葉医学専門学校卒業 (現千葉大学) |
前職 | 長野県司法保護司選衝委員 |
称号 | 勲五等双光旭日章 紺綬褒章 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1955年5月1日 - 1968年10月27日 |
松井 卓治(まつい たくじ、1888年(明治21年)6月6日[1][2] - 1978年(昭和53年)[3])は、大正から昭和期の医師、政治家。長野県飯田市長。
来歴
[編集]長野県下伊那郡飯田町[3](現飯田市)で、松井敦、光子の息子として生まれた[1]。旧制飯田中学(現長野県飯田高等学校)を経て[1][2][3]、1926年(大正元年)10月、旧制千葉医学専門学校を卒業[1][2][3]。同年、一年志願兵として歩兵第60連隊に入隊し、2年後に陸軍三等軍医として除隊[1][2][3]。東京江東病院小児科医局に勤務する[1][2]。1916年(大正5年)飯田に戻って兄が経営する医院に小児科医として勤め、1930年(昭和5年)兄の死去により医院を承継し、内科小児科医院を経営した[1][2]。1942年(昭和17年)から1947年(昭和22年)まで飯田市医師会長に在任[1][2][3]。1948年(昭和23年)長野県公安委員、1951年(昭和26年)同委委員長、長野県司法保護司選衝委員などを歴任した[1][2][3]。
1955年(昭和30年)5月、飯田市長選挙に当選し、1968年(昭和43年)10月まで務めた[1][2][3]。長野県市長会長も務めた[1][3]。在任中は昭和の大合併による下伊那郡7村との新設合併を実現した[2]。