松平信成 (旗本)
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保4年(1719年) |
死没 | 天明3年5月6日(1783年6月5日) |
改名 | 望辰→信成 |
別名 | 鍋五郎、鶴翁 |
墓所 | 東京都文京区小日向の深光寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重→家治 |
氏族 | 大河内松平家 |
父母 | 父:松平信晴 母:松平信望の娘 養父:松平信応 |
兄弟 | 信直、信成、本庄道倫、孫四郎、望喬 女、女(天野雄年室) |
妻 | 正室:松平信応の養女(関永張の娘) 継室:平岡頼雄の娘 継室:稲葉通周の娘 |
子 | 女(稲葉通欽室)、多与(松平信行室) 養子:信高、信行 |
松平 信成(まつだいら のぶなり)は、江戸時代中期の旗本(寄合)。堅綱系大河内松平家5代。石高は1000石。
生涯
[編集]享保4年(1719年)に旗本・松平信晴の次男として江戸で生まれる。延享2年(1745年)12月2日に松平信応の末期養子となり、閏12月2日に遺領を相続する。同月12日に初めて将軍家重に御目見する。
延享3年(1746年)2月12日に小納戸となり、12月18日に布衣の着用を許される。宝暦10年(1760年)5月13日に大御所・家重附となり、家重死後の宝暦11年(1761年)8月4日に寄合に列する。9月6日、再び小納戸となる。宝暦12年(1762年)11月1日、将軍世子・家基附となる。安永8年(1779年)に家基が亡くなったため、4月18日に再び寄合に列する。
安永9年(1780年)4月5日に隠居し、養老料300俵を賜る。天明3年(1783年)5月6日に死去。享年65。
備考
[編集]信成の代の松平家に仕える用人に滝沢運兵衛興義がいた。明和4年(1767年)に生まれた興義の五男・倉蔵はのちの戯作者曲亭馬琴(滝沢興邦)であり、松平家の屋敷跡地(江東区平野)には「滝沢馬琴誕生の地碑」が立っている。安永4年(1775年)に興義が没した際、滝沢家の俸禄が半減されたため、滝沢家側には不満が残った。安永5年(1776年)、10歳で兄から家督を譲られた倉蔵は信成の孫・八十五郎(信栄)の小姓を勤めていたが、安永9年(1780年)に松平家を出奔している。
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第二百五十七