松平清定 (安土桃山時代)
松平 清定(まつだいら きよさだ、天正13年(1585年) - 慶長10年2月11日(1605年3月30日)[1])は安土桃山時代から江戸時代前期の武将。徳川氏の家臣。竹谷松平家の分家の登之助家の祖。通称は内記[1]、登之助[要出典]。
松平清宗の次男。母は松平好景の娘。妻は松平家信の養女(松平康忠の娘)。子に松平清信がいる。
慶長年間に徳川家康・徳川秀忠の小姓となる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの時には兄・家清と共に清洲城の守備を行い、犬山城の受け取りを担当した。慶長6年(1601年)2月、兄・家清が三河国吉田に移封されると、そのうち3200石の所領を与えられた。慶長10年(1605年)2月11日、21歳で死去。法名は全桃[1]。