松平清直
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正12年(1584年) |
死没 | 慶安4年6月7日(1651年7月24日) |
改名 | 子聖(幼名)→清直 |
別名 | 庄右衛門(通称)、出羽守 |
戒名 | 原光院殿賀屋浄映大居士 |
墓所 | 岡崎市の円福寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 松平康忠→康直→松千代→忠輝→徳川秀忠→家光→家綱 |
藩 | 信濃川中島藩→越後高田藩 |
氏族 | 長沢松平家 |
父母 | 父:松平近清、母:酒井正親娘 |
兄弟 | 山田重辰室、清直、正世、 野々山吉範室、土井利勝正室 |
妻 | 正室:原田権右衛門娘 |
子 | 清順、親明 養子:松平正世娘 |
松平 清直(まつだいら きよなお)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・旗本。松平康忠の従弟。
生涯
[編集]天正12年(1584年)、長沢松平家の老臣・松平近清の子として誕生。
天正16年10月15日(1588年)、父の近清が死去し、その遺領100貫を相続する。
長沢松平家の宗家かつ主筋である従兄・松平康忠が死去し、跡目として徳川家康の息子の忠輝が養子として入嗣すると、清直はそのまま仕えた。主君・忠輝が信濃国川中島を領す頃、領内で代官などを勤めた。皆川広照、山田重辰と共に「上総介殿[1]の三臣」と称された。
だが家禄の膨張に伴い、大久保長安などが新たに加えられた家中では、花井吉成のような忠輝に付随した新参と、長沢松平家の古参家臣との対立が激しくなった。[2]清直も古参派の筆頭格であった姉婿の山田重辰に加担し、三者は駿府の徳川家康に訴え出たが、逆に家康の勘気を被り清直は減封となった。皆川は家中から解雇、山田は切腹処分となった。
慶長15年(1610年)閏2月、忠輝が越後国高田に大幅加増され移封されると、老臣に再任され5,000石の所領を与えられた。元和2年(1616年)7月、忠輝の改易により浪人する。
元和4年5月(1618年)、将軍家に召し出されて、長沢松平家の祖先の封地に近い三河国宝飯郡形原に5,000石の所領を与えられた。ここに交代寄合としての初代・形原領主となる。
慶安4年6月7日(1651年7月24日)に死去。後を嫡男・清順が継いだ。
系譜
[編集]弟・松平正世も忠輝に仕えたが、改易後は越前松平家に召抱えられた。姉妹は3人。長姉が山田重辰に嫁した他、戸田松平家の家臣野々山吉範に嫁した1人、残る1人は土井利勝正室となっている。清直が直参旗本となれたのは、利勝の推挙があったと考えられている。