栗原景太郎

くりはら けいたろう

栗原 景太郎
生誕 (1942-03-18) 1942年3月18日(82歳)
日本の旗 日本 東京都
著名な実績 日本人初の小型ヨット世界一周航海1970年
公式サイト 栗原景太郎 公式ウェブサイト
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栗原 景太郎(くりはら けいたろう、1942年昭和17年〉3月18日[1] - )は、日本海洋冒険家東京都出身[1]

経歴

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1961年(昭和36年)4月、神戸商船大学航海学科に入学、ヨット部に入部。次第にヨットでの世界一周航海を夢見るようになった。 1962年(昭和37年)8月、堀江謙一日本初の小型ヨット単独無寄港太平洋横断に成功したとのニュースを聞き、世界一周航海をより現実的に考えるようになった。 1965年(昭和40年)9月、大学卒業[2]

1966年(昭和41年)2月、川崎汽船に入社。ヨット世界一周航海を実現するため、2年後に退職[3]

1969年(昭和44年)5月5日神奈川県藤沢市江ノ島ヨットハーバーから小型ヨット「白鴎[注 1](はくおう)」で西回り世界一周に出航した。乗員は、栗原景太郎(艇長)、武田治郎、白瀬京子(白瀬矗の弟の孫)[4]の3人[5]

喜望峰マゼラン海峡を経て、翌1970年(昭和45年)8月22日、神奈川県三浦市三崎三崎漁港に入港、日本人として初の小型ヨット世界一周航海を達成した[5][注 2]

2023年には宇宙・地球・生命研究所でのイベント講師を務めるなど、近年も精力的に活動している[6]

世界一周の航海記録[7]

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1969年(昭和44年)

1970年(昭和45年)

航海日数 : 475日

航海距離 : 28,557海里(52,888km)- 三崎漁港まで。

注)ディレクション・ファインダー(電波方向探知機)無線機ともに搭載していなかった。

ヨット「白鴎」の主要目[8]

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著書

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単著

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  • 『白鴎号航海記』文藝春秋、1970年12月1日。OCLC 703830494全国書誌番号:73009459 
  • 『日本のヨット世界の海を行く : 白鴎号の航海記録』ポプラ社人類の記録シリーズ 7〉、1971年7月30日。OCLC 672647554全国書誌番号:45003053  - 小学上級〜中学生向。
  • 『新版 白鴎号航海記』マリン企画、1991年3月1日。ISBN 4895122166 

共著

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関連書籍

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脚注

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注釈

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  1. ^ 正しくは、『』の漢字(へん)は、「はこがまえ」の中に「メ」ではなく、「口が3つ」である。
  2. ^ 白瀬京子だけは、アルゼンチンブエノスアイレスからマゼラン海峡を通航してチリバルパライソまでの間はヨットに乗船せず、アンデス山脈を越えてバルパライソへ陸路を移動した。このため、白瀬個人は、小型ヨット世界一周は達成していない。
  3. ^ 発地の江の島ではなく、三崎漁港に入港したのは、検疫を受けるためである。
  4. ^ 栗原景太郎との対談が収録されている(全4ページ)。細節の題は「白鴎号で日本人初の偉業 : 一番怖かったのは人間」、「老人ホーム慰問約4100回 : 80歳までに再び世界一周」。

出典

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  1. ^ a b 自著『白鴎号航海記』文藝春秋版 17頁。
  2. ^ 自著『白鴎号航海記』文藝春秋版 22頁及び奥付。マリン企画版 奥付。
  3. ^ 自著『白鴎号航海記』文藝春秋版 奥付。
  4. ^ 毎日新聞東京版(夕刊1970年(昭和45年)8月22日 11面『よくぞ冒険血筋 : 白鴎号の白瀬京子さん : 「死んだら、あけて」父に託した封筒』。
  5. ^ a b 毎日新聞東京版(夕刊1970年(昭和45年)8月22日 1面『日本人ヨット、初の世界一周 : 女性含め三人、元気に : 魔の”マゼラン”乗切って』。
  6. ^ 【終了】7/29(土)開催「冒険家とヨットをつくる~風に向かって進む帆の秘密~」森下児童館(江東区と共催)”. 教育プログラム. 一般社団法人 宇宙・地球・生命研究所 (2023年7月29日). 2024年3月13日閲覧。
  7. ^ 自著『白鴎号航海記』。
  8. ^ 自著『白鴎号航海記』文藝春秋版 44-47頁。

外部リンク

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