桜井松平家
桜井松平家→桜井家 | |
---|---|
| |
本姓 | 称・清和源氏 |
家祖 | 松平信定 |
種別 | 武家 華族(子爵) |
出身地 | 三河国碧海郡桜井 |
主な根拠地 | 三河国碧海郡桜井 東京市目黒区上目黒 |
著名な人物 | 松平忠正 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
桜井松平家(さくらいまつだいらけ)は、清和源氏と称する松平氏の庶流である武家・華族だった家。
安城松平家の松平長親の次男(三男とも)信定を祖とする。三河国碧海郡桜井(現在の愛知県安城市桜井町)を領したことから桜井松平家と称する。十八松平の一つ。近世に摂津国尼崎藩主だった家は、維新後に桜井(さくらい)に改姓して華族の子爵家に列せられた。
歴史
[編集]戦国時代
[編集]松平長親の子である信定を祖とするのが通説であるが、菩提寺である桜井山菩提寺の過去帳には天文5年3月15日に没した松平親忠の四男(長親の弟)である松平親房(玄蕃允)[注釈 1]が筆頭に記されており、桜井松平家の実際の初代は親房で信定はその養子として後を継いだと考えられている。大永7年(1527年)の銘がある桜井神社の棟札にも「玄蕃入道宗安」の名前があり、桜井は元々親房の支配地であったことが判明する[1]。
父の偏愛を受けた信定は、松平宗家の地位を欲し、宗家の7代目となった甥の松平清康を疎ましく思っていたと推測される。
森山崩れ(守山崩れ)における清康の横死を絶好の機ととらえたらしく、義兄の織田信秀の後ろ盾を受けて岡崎城を占拠し、清康の嫡男の松平広忠を放逐した。だが、広忠を正統なる跡目と認める阿部定吉や大久保忠俊などの松平氏家臣団の多数派に対し、信定を推戴する者は皆無に等しい状態であった。駿河国の今川氏からの後ろ盾を得た多数派に対抗する手段もなく、岡崎城を手放すまでに追い込まれ、宗家簒奪に失敗した。この時、信定を圧迫したのは今川氏の山田景隆だった。
これに対して、森山崩れを家臣団の対立による謀反とする説を取る村岡幹生は、信定の岡崎入城は宗家の地位を狙ったものでは無く謀反鎮圧のための行為であるとする(村岡は信定が宗家の地位を望むなら、正統な跡目である広忠を殺害しないで放逐するのは不自然であるとする)。村岡は広忠を確保して今川氏の支援を得た謀反側(阿部・大久保ら)が信定の死後に実権を掌握したのが実像であろうとしている[2]。
いずれにしても、これで信定家が宗家に服従したわけではなく、信定の孫の松平忠正の代に至っても、宗家に対する敵対的姿勢を変えなかった。
今川義元の死後、今川氏からの独立を志す松平元康(後の徳川家康)が三河一向一揆と対立すると、吉良氏など松平宗家に敵対する勢力と結んで再び宗家転覆を企てたが、一揆は鎮圧され、またも敗北した。
以後、宗家に従属した。
江戸時代
[編集]初期には武蔵松山藩・遠江浜松藩5万石に封じられるが、短命の当主が多く、一時改易されたが、後に上総佐貫藩主家として復活した[3]。以後、駿河田中藩・遠江掛川藩・信濃飯山藩・遠江掛川藩(再封)を経て、摂津尼崎藩4万石で明治維新を迎えた[4]。
明治以降の桜井家
[編集]最後の尼崎藩主忠興は、明治元年(1868年)2月7日に松平から桜井に改姓[4]。明治2年(1869年)6月の版籍奉還で尼崎藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県まで務めた[5]。
明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると桜井家も大名家として華族に列した[6][7]。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事[注釈 2]として子爵に列せられた[9]。
3代子爵の桜井忠養の代に桜井子爵家の住居は東京市目黒区上目黒にあった[10]。
分流
[編集]- 桜井松平家当主松平忠頼の三男忠勝は親族の久松松平定勝の養子となり、後に徳川頼宣の家臣となり、その家統は紀州藩高家となる。この家は徳川家茂の生母である実成院の生家である。
- 実成院の系譜 松平忠頼ー忠勝ー重之ー忠永ー忠英ー柱之ー晋ー実成院ー徳川家茂
桜井氏ゆかりの地
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
東京さぬき倶楽部(江戸屋敷跡)
[編集]東京府芝区三田2丁目(現・東京都港区三田2丁目)に存在した邸は、第二次世界大戦の戦災を免れ、戦後香川県に売却され、東京さぬき倶楽部となったが、建物の老朽化・耐震構造問題が問題になっていた上、当地周辺の再開発計画を受けて閉館が決まった。
東京オリンピックのゲストをもてなした後の2020年(令和2年)8月31日での閉館が予定していたが、新型コロナウイルス感染症の感染拡大による利用者の減少により、当初の予定を前倒し、2020年(令和2年)4月30日に閉館した。
系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 俗名を「玄蕃允源信忠」と記すが、同時期の松平一族で官途名の玄蕃允を名乗ったのは親房しかいないため、誤記とみられる。[独自研究?]
- ^ 旧尼崎藩は現米2万7670石(表高4万石)で現米5万石未満の旧小藩に該当[8]
出典
[編集]- ^ 村岡幹生「松平信定の事績」『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年)、P216-219.
- ^ 村岡幹生「松平信定の事績」「安城四代清康から広忠へ-守山崩れの真相と松平広忠の執政開始-」『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年)、P225-231・242-249.
- ^ 新田完三 1984, p. 45.
- ^ a b 新田完三 1984, p. 45-47.
- ^ 新田完三 1984, p. 47-48.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 24.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 13-14.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 151.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 332.
- ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 404.
参考文献
[編集]- 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。
- 新田完三『内閣文庫蔵諸侯年表』東京堂出版、1984年(昭和59年)。