梁珤

梁 珤(りょう ほう、生年不詳 - 1467年)は、明代軍人は惟善[1]本貫汝寧府汝陽県

生涯

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梁銘の子として生まれた。1435年宣徳10年)2月、保定伯の爵位を嗣いだ。1448年正統13年)、副総兵となり、福建鄧茂七の乱の討伐にあたり、九龍山でその残党を攻撃した。軍を返すと、反乱が再び起こったため、梁珤は降格されて事官となった。石亨に従って功績を立て、爵位をもどされた。1450年景泰元年)、平蛮将軍の印を受け、王驥に代わって貴州苗族の乱を討つことになった。その冬、四道に分かれて進攻し、反乱軍を撃破し、7000人あまりを斬首し、寨500を破った。1451年(景泰2年)、沅州から兵を進め、都督の方瑛とともに反乱軍を興沢で破り、さらに香炉山で撃破した。苗王韋同烈らを捕らえ、数千人を捕斬した。兵を分けて都勻・草塘の苗族たちを攻撃し、かれらを降した。軍を返すと、苗族は再び反抗したので、梁珤は方瑛とともに再びこれを討ち、反乱を鎮圧した。1452年(景泰3年)12月、功を論じられて、爵位を保定侯に進められた。1453年(景泰4年)、湖広清浪の苗族の反乱を討って鎮圧した。1454年(景泰5年)2月、誥券を与えられ、保定伯の爵位の世襲を認められた。1457年天順元年)、陝西に出向して駐屯し、涼州で敵を破り、さらに靖虜堡で撃破した。北京に召還され、左府の事務を監理した。1467年成化3年)12月、死去した。蠡国公の位を追贈された。は襄靖といった。

妻子

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  • 張氏(張輗の次女)[2]

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  • 梁傅(保定伯の爵位を嗣いだ)
  • 梁任(兄の梁傅の死後、保定伯の爵位を嗣いだ。南京左府を管轄した)

脚注

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  1. ^ 孫奇逢『中州人物考』巻6
  2. ^ 張輗墓誌(李賢『古穣集』巻17所収)

参考文献

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  • 明史』巻154 列伝第42