梶谷忠二
梶谷 忠二(かじたに ちゅうじ 1900年10月9日[1] - 2006年8月30日)は、岡山県岡山市生まれの実業家。岡山木村屋創業者、岡山商工会議所最高顧問。梶谷博則は息子。
経歴
[編集]- 1919年(大正8年) - 修業先の東京・銀座の木村屋総本店からの暖簾分けで岡山木村屋を創業。創業当初は、「東京銀座木村屋・岡山支店」の看板を掲げた。
- 1944年(昭和19年)- 株式会社化し、社長になる。
- 1962年(昭和37年) - 藍綬褒章を受章[1]。
- 1978年(昭和53年) - 会長に就任(~2001年まで)。
- 1981年(昭和56年) - 勲三等瑞宝章を受章[2]。
- 2006年(平成18年)8月30日 - 岡山市内で老衰のため死去。享年105[3]。
その他、岡山県経営者協会会長(1960年~1968年、1981年~1988年)。岡山商工会議所会頭(1960年~1968年)。さらに、岡山県商工会議所連合会会長、岡山県観光連盟会長、日本赤十字社岡山県副支部長などを歴任。
人物
[編集]木村屋総本店からの暖簾分けの際に、「一生、パン以外の事業はしない」と当時の会長に約束して、自身が死ぬまで約束を守り通した。
- パン以外の食品事業は子会社の梶谷食品が、ホテル業は同じく子会社の岡山シティホテルが行った。
- ゴルフ練習場のマスカットゴルフクラブとバッティングセンターのマスカットホームランドームは、例外的に岡山木村屋の直轄経営だったが、上記の暖簾分けの際の約束に配慮した運営だった可能性がある。
福祉に関心があり、社会福祉法人旭川荘の理事を40年務めた。また、1990年に1億円を投じて梶谷福祉基金を設立している。
脚注
[編集]- ^ a b 『人事興信録 第25版 上』(人事興信所、1969年)か90頁
- ^ 『現代物故者事典2006~2008』(日外アソシエーツ、2009年)p.168
- ^ “岡山木村屋を創業 岡山商議所発展に尽力”. VISION OKAYAMA. 2021年12月9日閲覧。 “2006年9.4号”