橋本群
橋本 群 | |
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生誕 | 1886年10月23日 日本、広島県 |
死没 | 1963年12月10日(77歳没) |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1908年(明治41年)5月 - 1939年(昭和14年)12月 |
最終階級 | 陸軍中将 |
橋本 群(はしもと ぐん、1886年(明治19年)10月23日[1][2] - 1963年(昭和38年)12月10日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]広島県出身[1][3]。農業・橋本惣三郎の三男として生れる[1]。広陵中学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1908年(明治41年)5月、陸軍士官学校(20期)を次席卒業[1][2][3]。士官学校の同期・同兵科に最後の陸軍大臣下村定がいる。同年12月、砲兵少尉に任官し近衛野砲兵連隊付となった[1][3]。1912年(大正元年)11月、陸軍砲工学校高等科(18期)を優等で卒業[1][3]。1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(28期)を優等で卒業した[1][2][3]。
1917年(大正6年)8月、陸軍野戦砲兵学校教官となり、近衛野砲兵連隊中隊長、フランス駐在、参謀本部員などを経て、1915年(大正4年)12月から翌年11月まで、陸大専攻学生として学んだ[1]。
1926年(大正15年)12月、野戦砲兵学校教官となり、1929年(昭和4年)6月、参謀本部員に異動[1]。同年6月から1931年(昭和6年)8月まで上原勇作元帥副官を兼務した[1]。1931年8月、砲兵大佐に昇進し野砲兵第1連隊長に就任[1][3]。参謀本部課長、陸軍省軍務局軍事課長、鎮海湾要塞司令官を歴任し、1936年(昭和11年)3月、陸軍少将に進級した[1][3]。
1936年8月、支那駐屯軍参謀長に就任[1][2][3]。在任中に盧溝橋事件が発生し[2]日中戦争が勃発の際に橋本は冀察政務委員会の要人と停戦交渉し、7月19日に張自忠と停戦協定を締結し、7月20日には内地軍派兵に反対意見を起草した[4]。第1軍参謀長を経て、参謀本部第1部長に就任[1][2][3]。1939年(昭和14年)3月、陸軍中将に昇進した[1][2][3]。同年5月にノモンハン事件が発生し、停戦後の同年9月に引責辞任し参謀本部付となった[1][2][3]。同年11月に待命、翌月予備役に編入された[1][2][3]。後に北白川宮家別当を務めた[1]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。
栄典
[編集]- 位階
- 1909年(明治42年)3月1日 - 正八位[6]
- 1912年(明治45年)3月1日 - 従七位[7]
- 1917年(大正6年)3月20日 - 正七位[8]
- 1922年(大正11年)4月20日 - 従六位[9]
- 1927年(昭和2年)5月16日 - 正六位[10]
- 1931年(昭和6年)9月15日 - 従五位[11]
- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[12]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『日本陸海軍総合事典』第2版、124頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『日本陸軍将官辞典』573頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』251-252頁。
- ^ 橋本は「29軍(宗哲元軍)は全面的に支那駐屯軍の要求を容れ、逐次実行に移しつつあり」と打電した。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」21頁。
- ^ 『官報』第7701号「叙任及辞令」1909年3月2日。
- ^ 『官報』第8608号「叙任及辞令」1912年3月2日。
- ^ 『官報』第1389号「叙任及辞令」1917年3月22日。
- ^ 『官報』第2913号「叙任及辞令」1922年4月21日。
- ^ 『官報』第151号「叙任及辞令」1927年7月1日。
- ^ 『官報』第1434号「叙任及辞令」1931年10月8日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。