橘公頼

 
橘公頼
時代 平安時代前期 - 中期
生誕 元慶元年(877年
死没 天慶4年2月20日941年3月25日
官位 従三位中納言
主君 宇多天皇醍醐天皇朱雀天皇
氏族 橘氏
父母 父:橘広相、母:雄風王
兄弟 公廉、公材、公頼、公統、公緒、公胤、公彦、義子
敏実、敏仲、敏通、敏貞、敏延
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橘 公頼(たちばな の きみより)は、平安時代前期から中期にかけての公卿歌人参議橘広相の子。官位従三位中納言

経歴

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宇多朝末の寛平8年(896年蔵人に補任する。左衛門少尉・左衛門大尉を経て、昌泰2年(899年従五位下叙爵する。

延喜2年(902年周防権守に任ぜられると、延喜6年(906年大宰少弐、延喜7年(907年備前権守醍醐朝の前期に地方官を歴任し、延喜12年(912年)正月に治国の功労により従五位上に叙せられる。同月権右少弁に任官すると、延喜16年(916年正五位下、延喜18年(918年)左少弁、延喜19年(919年従四位下と醍醐朝中盤は弁官を務めながら順調に昇進する。その後、右京大夫左近衛中将播磨権守・備前権守など内外の諸官を歴任して、延長3年(925年)従四位上に昇叙され、延長5年(927年参議として公卿に列す。

朱雀朝では、議政官を務める傍らで右兵衛督・左衛門督などを兼帯し、この間の承平2年(932年正四位下に叙せられる。承平5年(935年大宰権帥を兼ねて大宰府に下向する。承平6年(936年従三位天慶2年(939年)中納言に叙任されるが、引き続き権帥を務めて大宰府に留まる。

天慶4年(941年)2月20日任地の大宰府で薨去享年65。最終官位は中納言兼大宰権帥従三位。

勅撰歌人として、『後撰和歌集[1]と『新勅撰和歌集[2]和歌作品が1首ずつ入集している。

伝承

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天慶4年(941年藤原純友の乱に際しては、大宰府を落として柳川に迫った藤原純乗(藤原純友の弟)の軍勢を、蒲池城で迎え撃った。その功により橘公頼の子孫は、筑後国蒲池の領主となったという。

福岡県柳川市に伝わる伝承では、蒲池城は藤原純乗が築き、橘公頼は柳川城を築いて対抗したとされる。そこから蒲池城に拠る蒲池の領主は藤原純乗の一族と伝えられているが、当時は柳川城はまだなく、橘公頼が子・敏通と共に藤原純乗を迎え撃ったのは蒲池城である。また近隣一帯は、田尻氏など純友追討に功のあった大蔵春実の子孫が土着しており、藤原純友一族の子孫が勢力を持ったとは見なしがたい。蒲池の領主もまた藤原純友追討に功のあった橘公頼の子孫であり、鎌倉時代に嵯峨源氏の源久直(蒲池久直)が蒲池の地頭職になって赴任し、橘公頼の子孫の筑後橘氏の娘婿となり、その勢力を背景にして蒲池氏を名乗る。

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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  • 父:橘広相
  • 母:雄風王の娘[3]
  • 妻:不詳
    • 男子:橘敏実
    • 男子:橘敏仲
    • 三男:橘敏通
    • 男子:橘敏貞 - 相模守
    • 男子:橘敏延

脚注

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  1. ^ 『後撰和歌集』歌番号637
  2. ^ 『新勅撰和歌集』歌番号1282
  3. ^ 「橘氏系図」(『群書類従』 巻第63所収)

参考文献

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軍職
先代
藤原恒佐
左衛門督
933 - 935
次代
藤原実頼
先代
藤原兼茂
右兵衛督
932 - 933
次代
源庶明