正木昌陽
正木 昌陽(まさき しょうよう、文政10年11月12日(1827年12月29日)- 明治38年(1905年)7月14日は、江戸時代、明治時代の儒学者、教育者。最初は善太夫と称した。号は木鶏[1]。
経歴
[編集]福岡藩士正木重光の二男として生まれる。正木家は代々福岡藩の支藩である直方の東蓮寺藩に仕えていたが、藩主であった黒田継高が本藩福岡藩の藩主となったため、それに従って福岡に住居を移した。藩校修猷館に入り、井土学圃(周磐)、原田北溟を師として経書や歴史を学ぶ[1]。
嘉永5年(1852年)修猷館の加勢役に任ぜられ、助教を経て[2]、明治3年(1870年)教授となる。この年上京して、芳野金陵、藤野海南、小中村清矩らと交友した。帰藩後、明治4年(1871年)修猷館の副督学となり[2]、教授の傍ら、家塾「不狭学舎」を開き、その後門弟は四千人を数えた[1]。門弟には金子堅太郎がいる。
その後、鳥飼八幡宮の神職、香椎宮権禰宜兼権中講義を務めた[2]。明治35年(1902年)明治天皇が福岡に行幸した折には、拝謁を賜っている[1]。
明治38年(1905年)死去し、大圓寺に葬られた[1]。