毛利宗広
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保2年7月6日[1][2](1717年8月12日) |
死没 | 寛延4年2月4日(1751年3月1日)[1] |
改名 | 百合助[1](幼名)、維広(初名)[1]、宗広 |
別名 | 大膳[1]、松平大膳[2] |
戒名 | 観光院殿前二州大守四品拾遺輔閥兼大官令天倫常沢大居士[1]、観光公[1] |
墓所 | 山口県萩市桜江の大照院[1] |
官位 | 従五位下大膳大夫[1]、従四位下[1]、侍従[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗、家重 |
藩 | 長州藩主 |
氏族 | 毛利氏 |
父母 | 毛利吉元[1][2]、永昌院[1] |
兄弟 | 元朝(宗元)、元陳、宗広、皆姫、寧ら |
妻 | 松平宗昌娘勝姫[1] |
子 | 齢、百合姫ら 重就[3] |
毛利 宗広(もうり むねひろ)は、江戸時代中期から後期の大名。毛利氏20代当主。長州藩6代藩主。5代藩主・毛利吉元の五男[1][2]。正室は松平宗昌の娘・勝姫(隔芳院・融芳院)。諱は初め
経歴
[編集]享保2年(1717年)7月6日に萩城で生まれる[1][2]。長兄で嫡子だった宗元が享保6年(1721年)に早世したため世嗣となる。享保12年(1727年)に松平大膳と称し、諱を維広とする[2]。同年、将軍・吉宗から偏諱を受け宗広と改名する[2]。享保16年(1731年)、吉元の死去により家督を相続し15歳にして藩主に就く[1][2]。
その施政は、岡山藩の倉安川を参考に萩城下に藍場川を造成し、水運の便を図ったり、神社仏閣の建設にも力を入れた。治世中の出来事として、寛保2年江戸洪水の手伝い普請がある。
寛延4年(1751年)2月4日、35歳で死去した[1]。世嗣となる男児がいなかったため、支藩である長府藩から重就が末期養子として迎えられた。
系譜
[編集]偏諱を受けた人物
[編集]- 毛利広信(右田毛利家)
- 毛利広定(広胖)(広信の養子、重就の実兄。※広定については父の匡広から賜った可能性もある)
- 毛利広漢(広氏/広景)(阿川毛利家)
- 毛利広圓(大野毛利家)
- 井原広似(長州藩士。前藩主毛利吉元期の家臣、井原孫左衛門元歳の子と思われる。次男に熊谷就直がいる。年代から判断して就直の養父・熊谷元貞の子である井原就正は広似の養子と思われる)
- 宍戸広周(広満)(宍戸氏、安芸熊谷氏の出身で熊谷就直の義兄にあたる)
- 宍道広慶(廣慶)(益田就高の子、宍道氏を継ぐ)
- 椙杜広周(椙杜氏、椙杜元縁の孫)
- 福原広門(広茂)(宇部領主福原家)
- 益田広尭(須佐領主益田家、宍道広慶の実兄)
- 益田広高(問田益田家)
- ※死後
- 毛利重広(重就の養子。宗広の遺言により娘婿となり、重就の嫡子となるも早世)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 時山弥八編『国立国会図書館デジタルコレクション 稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592 。
- 吉田祥朔『近世防長人名辞典』(増補)マツノ書店、1976年6月1日。 NCID BN02934961。