毛利高直
時代 | 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 寛永7年(1630年) |
死没 | 寛文4年8月3日(1664年9月22日) |
改名 | 市三郎、高直 |
戒名 | 長川院 |
官位 | 従五位下伊勢守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光→家綱 |
藩 | 豊後佐伯藩主 |
氏族 | 毛利氏 |
父母 | 父:毛利高成、母:佐久間安政の3女 |
兄弟 | 高直、川口宗重室 |
妻 | 正室:牧野信成の娘 |
子 | 高重、戸田忠真正室 |
毛利 高直(もうり たかなお)は、江戸時代前期の大名。豊後国佐伯藩の第3代藩主。官位は従五位下・伊勢守。
略歴
[編集]寛永7年(1630年)、豊後国佐伯藩第2代藩主・毛利高成の長男として誕生。幼名は市三郎。
父の死から翌年の寛永9年(1632年)、4歳で家督を継いだ。ところが幼少だったため、伯父(高成の庶兄)の高定(高明)を擁立する一派が現われた。一派の中心人物は初代藩主高政の弟で大叔父にあたる毛利吉安で、一門衆として知行2000石は家中随一の大禄だった。一時は御家騒動にまで発展したが、この争いは高直派が勝利した。敗れた吉安は潔しとせず、自らの領知を幕府に返上して旗本となる。高定も300俵の旗本に召抱えられた。
高直は幕府の命を受けて内裏の普請を務めている。また、幼少で藩主となったため、家老の並河信吉、磯部三左衛門らの補佐を受けたが、その並河の一族と磯部が藩政の主導権をめぐって対立するなど、藩政は多難を極めた。
寛文4年(1664年)8月3日、35歳で死去し、跡を長男高重が継いだ。法号は長川院。
系譜
[編集]父母
正室
- 牧野信成の娘
子女