永井潔
永井 潔(ながい きよし、1916年8月24日 - 2008年9月8日)は、日本の画家。
父は新潟県三条市出身の教育者、母は京都本阿弥家の末裔[1]。 娘は劇作家の永井愛。
硲伊之助らに師事。二科番衆技塾、本郷岡田三郎助美術研究所で学ぶ。 日本美術会の創立に参加、事務局長や附属民主主義美術研究所所長を務める。
一水会優賞、さくら新人賞を受賞。 学校法人中央労働学園理事長となり、法人が経営する東京文科アカデミー、武蔵野外語専門学校の理事長・校長を歴任した[1]。
書籍の装幀にも携わり、児童書の挿絵も描いた。 絵本雑誌『キンダーブック』、山代巴『荷車の歌』、村山知義『ウィリアム・テル』、筑摩書房『新版小学生全集』、講談社『少年少女世界文学全集』、『世界の名作図書館』、偕成社『ジュニア版世界文学名作選』、『ジュニア版・日本の古典文学』、『ジュニア版日本文学名作選』、岩崎書店『少年少女おはなし世界歴史』の挿絵などでも知られており、『絵で読む名作小説 - 永井潔挿絵画集』(2006年)も刊行されている。
経歴
[編集]- 1916年、群馬県前橋市(父の赴任先)で生まれる[1]。
- 1933年、第一高等学校に入学するも後に中退。梅崎春生・西口克己等と知り合う。画家・硲伊之助に師事。二科番衆技塾に入塾[1]。
- 1938年、朝鮮羅南に動員される。同年7月29日から8月11日にかけての張鼓峰事件で胸部盲貫銃創を受けて約9ヶ月入院[1]。
- 1939年、本郷岡田三郎助美術研究所(この年、創設者の岡田は死去)入所。
- 1940年、治安維持法で検挙。釈放後、文化学院美術部助手、美術出版社の雑誌『制作』編集に携わる[1]。
- 1944年、召集令状を受ける[2]。
- 1946年4月、日本美術会創立総会に参加。
- 1947年、読売新聞年度ベストスリーに選ばれる[1]
- 1948年12月、東京美術学校講堂で開催された日本美術会第2回大会で書記長となる(委員長は硲伊之助)。1949年12月まで[3]。
- 1953年、一水会優賞、さくら新人賞を受賞、後退会[1]。
- 1956年5月、再び、日本美術会事務局長(委員長は硲伊之助)。1957年2月まで[3]。
- 1957年、リアリズム研究会の結成に参加。
- 1965年、ヨーロッパ写生展[2]。
- 1966年、日本美術会附属研究所「民美」初代所長。1971年まで[3]。
- 1968年、日本共産党中央委員会書記長、宮本顕治の還暦記念として「宮本顕治像」を描き、この肖像画は現在、日本共産党本部に所蔵されている[4]。
- 1994年、画集刊行。
- 2006年9月26日から10月3日、90歳を記念して、戦前戦後の油彩、水彩、素描70点を展示する「永井潔展」を都内で開催[5]。
- 2007年8月6日、日本共産党中央委員会・宮本顕治元議長の葬儀で友人のひとりとして弔辞を読み上げる[6]。
- 2008年9月8日、転移性肺がんのため東京都世田谷区の病院で死去[7]。同年11月22日、東京都港区南青山のホテルでしのぶ会が開催された[8]。
主な著書
[編集]- 『芸術論ノート』(新日本出版社) 1970年
- 『芸術の伝統と創造』(大月書店) 1974年
- 『芸術と自由』(新日本出版社) 1978年
- 『反映と創造 芸術論への序説』(新日本出版社) 1981年
- 『永井潔画集』(永井潔画集刊行委員会) 1994年
- 『絵で読む名作小説 - 永井潔挿絵画集』(光陽出版社) 2006年
- 『永井潔画文集 絵と写真でたどる芸術の旅』(みずさわ画廊) 2008年
- 『戦後文化運動・一つの軌跡』(光陽出版社) 2008年
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h 永井潔画文集 絵と写真でたどる芸術の旅 掲載著者略歴
- ^ a b 2008年9月22日 民衆の偉大な画家、永井潔先生を悼んで(追悼文)矢田健爾サイト内
- ^ a b c 日本美術会と日本アンデパンダン展の略歴日本美術会サイト内
- ^ 「本部ビル竣工3周年 党所蔵の美術展 20日から開催」2008年1月11日「しんぶん赤旗」
- ^ 「永井潔展」紹介ページ日本美術会サイト内
- ^ 「厳かに故宮本顕治元議長の葬儀 遺志うけつぎ前進誓う 各界、大使館、党幹部など多数参列 不破前議長が弔辞。」2007年8月7日「しんぶん赤旗」
- ^ 「くまにちコム」2008年9月12日 訃報 永井潔氏死去 画家
- ^ 「故永井潔氏をしのぶ会」大分合同新聞社oita-press 2008年11月19日